女性とスポーツ
―人見絹枝が残した功績―
25組32番 古井 恵利香
【目的】
近年、メディアなどで取り上げられるような有名女性アスリートは多く、世界各国で活躍している。女性が鎬を削って勝負に挑むことは何の問題もなく、称えられてさえいる。激しいスポーツは女子には向かないといわれていた時代もあったようだが、そのような時代と比較すると女性のスポーツ進出は質・量ともに加速してきた。
そこで、私はこのように女性の競技化が進む以前において、社会がそれをどのように捉えていたのかを調査したいと考えた。競技は陸上競技に注目した。
さらに、日本女性のパイオニアとして、競技者の先陣をきって世界を舞台に活躍していた人見絹枝という女性の生涯も追っていきたいと考える。陸上競技者として、また新聞記者として女性の社会進出の先導役を担い、献身した彼女の努力、どのような過去を歩んできたかを文献を中心として調査する。
【各章の概要】
第一章 スポーツ界における女性の存在
1928年アムステルダム・オリンピックまで女子陸上競技の大会参加は認められなかった。女子禁制という厳しい状況の中、女性のオリンピック参加へと動いたアリス・ミリア(仏)という女性がいた。彼女は国際女子スポーツ連盟(FSFI)の創始者でもあり会長でもあった。この連盟は、オリンピックに女子陸上競技を種目化することを巡り15年間も闘い、さらには審判や組織者としても参画することを望んでいた。
一方で、日本ではまだ女子が競技をするのは学校教育の中でしか受け入れられていなかった。知育、徳育偏重の当時、体育まして競技には偏見もあった。
第二章 人見絹枝の生涯
1907年元旦に岡山県で誕生した人見は、 県下でも秀才が集まるという岡山県高等女学校に入学すると「テニスの人見さん」として活躍した。その後、二階堂体操塾(現日本女子体育大学)へ進学し、陸上と出会った。大阪毎日新聞社へ入社すると、女性初の記者として男性にも負けずに仕事に没頭した。仕事と練習を両立し、数々の日本記録、そして4つの世界新記録を樹立した。また、オリンピックなどの世界の舞台で活躍した人物である。特にアムステルダム・オリンピックでの、死闘の800mで2位となったことは印象深い。そして、人見は24歳という若さで生涯の幕を閉じた。
【結論】
日本女性の仕事は、夫を支えて子供を育てることとされていた1920年代の風潮を変えるため、人見は逆風に立ち向かった。彼女がいたからこそ現在の女性スポーツはあるというほど現在に魂を伝えた人物であった。
さらには人見の影響力は大きく、前畑秀子や有森裕子などのアスリートからも尊敬されていた。
【主な資料】
1 楠木佳子、三木草子編(2004)「わたし」を生きる女たち伝記で読むその生涯 世界思想社
2 小原敏彦(1981)燃え尽きたランナー人見絹枝の生涯 大和書店