日本プロ野球のドラフト制度に関する研究 -問題と今後の展望-

後藤ゼミナール3年(第2期生)2009年10月

〜 構成 〜

  • 1.研究の動機・目的
  • 2.ドラフト制度の概要
    • 2-1.ドラフト制度の成立
    • 2-2.「逆指名」制度
    • 2-3.「自由獲得枠」制度
    • 2-4.「希望入団枠」制度
    • 2-5.FA(フリーエージェント)権
  • 3.ドラフト制度にまつわる問題
    • 3-1.江川事件(空白の一日)
    • 3-2.一場事件
    • 3-3.倫理行動宣言
    • 3-4.西武裏金問題
    • 3-5.那須野事件
  • 4.今後のドラフト制度の在り方(まとめ)

1.研究の動機・目的

 昨今、日本のスポーツではサッカー人気に押され気味と言われながらも、野球人気は根強く、我が国で一番人気のあるスポーツといえよう。
 我々のゼミはスポーツ文化論ゼミであり、スポーツに関連した人文学的テーマについて勉強している。今回、ゼミナール発表会に発表するテーマを考えた結果、偶然にも野球経験者・関係者が比較的多いこともあり、野球について研究することに決めた。
 野球といっても様々なテーマが考えられるが、その中でも身近で興味を持てるテーマとして、ドラフト会議について着目した。
 ドラフト会議は毎年11月に行われており、必ずスポーツ紙の一面記事になるほどのインパクトを持っているが、合わせて、これまで様々な問題点も指摘されてきた。
 本研究では、これまでの日本プロ野球におけるドラフト制度の歴史と問題点を明らかにした上で、より問題点の少ない望ましいドラフト制度の在り方を提言することを目的とした。

2.ドラフト制度の概要
2-1.ドラフト制度の成立

 ドラフト会議は、1965(昭和40)年11月17日東京・日比谷の日生会館で新人選手選択会議として開かれたことを嚆矢とする。以後40年以上の時を重ね、球界運営の根幹を成す制度として定着してきた。
ドラフト会議が行われる以前は、アマチュア球界の金の卵をめぐって繰り広げられる争奪戦は、完全な自由競争であった。当然のように札束合戦の様相を呈し、契約金の高騰は歯止めが利かなくなっていた。新人選手獲得に要する資金の増大が、大半の球団の財政を危機に陥れていた。
 ドラフト制度の導入を検討し始めたのは、63年から64年ごろのことであった。西鉄ライオンズの西 亦二郎球団代表が中心となって検討された。西鉄は63年のパ・リーグ優勝チームであった。しかし、主力選手の年俸アップで人件費は膨らんだ上、新たな補強にも予算が必要な状態であった。観客動員の少ないパ・リーグ各球団は、勝っても、負けても慢性的な赤字を抱えての球団経営を余儀なくされたのであった。
 発想の大きなヒントとなったのが、アメリカのプロフットボール界が1935年から採用していた「新人選手プール制度」であった。アマ選手を一度プールしてそれを下位球団から順番に各球団に分配するというものであった。このシステムで注目すべきところは獲得の競争が生まれないことであった。つまり「契約金の高騰」が抑えられ、球団財政への負担が大きく軽減されることであった。また、自由競争のもとでは戦力格差が生じるため、「戦力均等化」を図るためにも有効な方法であると考えられた。 
 64年7月、西代表のこれらの提案は、パ・リーグ各球団の賛同を得て本格的に動きだした。セ・リーグ側では大洋、広島、国鉄が賛意を表明したものの、潤沢な資金を持ち、自由競争下で優位に立っていた巨人、阪神、中日を説得するには、さらに時間がかかった。「フリーエージェント・ドラフトを骨子とする新人選手採用制度」の導入が決まったのは65年4月22日であった。同年7月26日、「新人選手に対する契約締結交渉規程」つまりドラフト制度の条文が正式に発効された。11月17日に第1回ドラフト会議が開催された。その日から日本のドラフト制度の歴史がスタートした。米国メジャー・リーグでは、下位球団から優先的に有力選手を分配する「完全ウェーバー制」を導入していたが、これが「基本的人権の侵害にあたる」とするドラフト反対派の主張を崩すことができないままドラフトのルールが出来上がった。ドラフト制度導入を急いだ推進派たちは、「契約金高騰の抑制」を最優先し、「戦力均等化」の理念へのこだわりは薄かったのであった。「くじ引き」を盛り込んだ独自のシステムが日本のドラフト制度の原型となった。以来、日本のドラフト会議が「完全ウェーバー制」で実施されたことは、一度もない。

2-2.「逆指名」制度

 入札方式の晩年は、各球団とも水面下での事前交渉のノウハウを蓄積し、形式上の「逆指名」が慣例となっていた。1993(平成5)年、これらの現状が制度かされることになった。つまり、1,2位指名を指定採用枠とし、コミッショナー事務局が事前に選手の希望を調査する「逆指名制度」が導入された。94年、契約金最高標準額が1億円以内と規定された。95年、ドラフト1、2位選手は契約金のほか、5000万円までの第二次契約(出来高)が認められた。02年、ドラフト指名順位に拘わらず第二次契約が認められた。
 日本のドラフト制度は当初の「契約金高騰の抑制」「戦力均等化」の理念をないがしろにしたまま、自由競争の色合いを深めていった。しかし、日本高校野球連盟は終始一貫「逆指名制度」の導入に反対の立場を崩さなかった。逆指名ができるのは大学生と社会人に限られ、高校生は対象外となった。

2-3.「自由獲得枠」制度

 2001(平成13)年の制度改定で、ドラフトは「自由獲得枠」方式へと移行した。しかし、実態は逆指名制と変わらないものであった。アマチュア選手の「自由競争」を規定する制度になった。各球団2人までの自由獲得選手は、会議開催の1週間前までに「契約締結内定選手」として公示された。それ以後、大学生、社会人の目玉選手はドラフト会議での目玉ではなり得なくなったのであった。

2-4.「希望入団枠」制度

 2005(平成17)年、さらに制度が改定され、「自由獲得枠」から「希望入団枠」へと名称が変わり、各球団1人のみ事前に獲得可能となった。そして、高校生と大学生・社会人を分けて、ドラフト会議がそれぞれ行われるようになった。原則として高校生ドラフト会議は10月に、大学生・社会人ドラフト会議は11月に開催された。
 高校生ドラフトでは、1巡目は全球団が同時に選手を指名して、重複した場合に抽選を行う。抽選に外れた球団のみで、ウェーバーによる代替選手の指名を行う。1巡目の指名は行わなくてもよく、その場合は事前の申請を要した。2巡目は大学生・社会人ドラフトで希望入団枠を使わないことを事前に申請した球団のみが参加でき、ウェーバー方式で指名選手を確定する。3巡目以降はウェーバー方式と逆ウェーバー方式を交互に行い、すべての球団が選択の終了を宣言するまで続ける。
 大学生・社会人ドラフトでは、1巡目は希望入団枠を使用しなかった球団がウェーバー順に指名を行う。2巡目は高校生ドラフトの1巡目を回避した球団がウェーバー順で指名を行う。3巡目以降は高校生ドラフトと同様である。
 以上、ドラフト制度の歴史を見た限り、ドラフト制度は「契約金・年俸高騰の抑制」と「戦力均等化」に向けて歩んできているといえる。つまり、この方向性は「完全ウェーバー制」に向かっているともいえる。

2-5.FA(フリーエージェント)権

 フリーエージェントとは、誰とでも契約できる立場、原則をたどれば「拘束されない行動主体」ということになる。経営者側は年俸の高騰を招くとしてFA権の要求を拒否していたが、1993(平成5)年3月22日のオーナー会議で正式に認められた。
FA権取得の条件として選手は,入団して初めて出場選手登録された後,その日数がセ・リーグ及びパ・リーグの同じシーズン中に145日を満たし,これが8シーズンに達したときに,国内FAとなる資格を取得する。ただし,07年以降に行われたドラフト指名されて入団した大学・社会人選手については,上記の8シーズンを7シーズンと読み替えるものとする。
 出場選手登録日数が同年度中に145日に満たないシーズンがある場合は,それらのシーズンの出場選手登録日数をすべて合算し,145日に達したものを1シーズンとして計算する。
FA権を行使することによって、スター選手が移籍してきて球団に新たな戦力が加わりファンの期待がますます高まっていくという長所がある。しかし一方では、金銭力のある球団に戦力が偏ってしまう短所も見られる。

3.ドラフト制度にまつわる問題
3-1.江川事件(空白の一日)

 1978(昭和53)年、日本プロ野球界において読売ジャイアンツによる異例の事件が起きた。その中心的人物は江川卓であった。江川は作新学院高等学校のエースとしてチームを甲子園に導き、最多奪三振の記録を塗り替えた。高校を卒業後、法政大学へ進学した。法大では一年からエースとして歴代2位となる47勝を挙げるなど多くの記録を塗り替えた。
 法大4年になった江川は、77年秋のドラフト会議でクラウンライターライオンズから1位指名を受けた。しかし、首都圏のセ・リーグ、特に読売ジャイアンツへの入団希望が強かった。そのため、パ・リーグで本拠地が福岡のクラウンライターへの入団を拒否して、78年11月まで作新学院の職員という立場でアメリカへ留学した。
 当時の野球協約では「日本の中学、高校、大学在籍者」がドラフトの対象となっていた。しかし、78年7月に野球協約は「日本の中学、高校、大学の在籍の経験のある者」を次回のドラフト会議当日から適用すると改定した。つまり、この改定によって78年のドラフト会議で江川はドラフトの対象となった。
また、野球協約第138条には「球団と指名選手との間の入団交渉期間は、ドラフト会議当日から翌年のドラフト会議の前々日まで」となっていた。この規定は、ドラフト会議前日は事務上の予備日とするために定められ、全ての球団の指名選手の新人契約は禁止となっていた。読売ジャイアンツは、クラウンライターライオンズの江川に対する交渉権が切れたドラフト前日の予備日であった78年11月21日に江川と契約を交わし、直ちにセ・リーグに申請した。しかし、セ・リーグの鈴木龍二会長はこの申請を認めなかった。この結果に対して読売ジャイアンツは不満を抱き、78年のドラフト会議をボイコットした。結局78年のドラフト会議は読売ジャイアンツを除く11球団で行われ、阪神、南海、近鉄、ロッテの4球団が江川を1位指名した。そしてこの年の重複指名の結果により、阪神タイガースが江川の交渉権を獲得した。
 その後、読売ジャイアンツも江川獲得をあきらめず、一度阪神タイガースと江川が契約をした後に、読売ジャイアンツへの移籍をプロ野球実行委員会に懇願した。その結果、翌年の79年1月31日に阪神タイガースは、江川と契約を交わした直後に読売ジャイアンツとのトレードを決断した。阪神タイガースは、読売ジャイアンツから江川の代わりに小林繁投手をトレードにより獲得した。その後79年2月8日にこの契約は、野球協約に反するとプロ野球実行委員会で指摘され、この事件の責任をとるために金子鋭コミッショナーは辞任した。

表1 江川卓関連年表

1973年夏
春夏連続で甲子園に出場し、「怪物」として注目を集める。
1973年秋
阪急ブレーブスからドラフト1位指名を受ける。しかし進学を希望していたためこれを拒否。
1974年
法政大学に入学。同年秋にエースに抜擢されベストナインに選ばれる。
1977年11月22日
クラウンに1位指名されるが、これを拒否。
1978年4月
アメリカへ野球留学。同年11月に帰国。
1978年11月
ドラフト前日11月21日、「空白の一日」に巨人と契約を結ぶが翌日阪神タイガースから一位指名を受ける。コミッショナーの強い要望により、トレードで巨人に入団。
1980年
最多勝
1981年
最多勝(2年連続)、史上6人目の投手五冠王(最高防御率、最多勝、最高勝率、最多奪三振、最多完封勝利)でMVPに選ばれる。
1984年
オールスター第3戦で8人連続三振を取る。
1987年
現役引退

3-2.一場事件

 2004(平成16)年、当時明治大学の学生だった一場靖弘投手(現東京ヤクルトスワローズ)に対して、読売ジャイアンツ、横浜ベイスターズ、阪神タイガースの3球団が食事代や交通費などを渡していたことが発覚した。この問題により、3球団ともオーナーが引責辞任に至った。一場は明大野球部を退部した。この年のドラフト会議で、新規参入の東北楽天ゴールデンイーグルスから自由獲得枠で指名を受け入団した。

3-3.倫理行動宣言

 一場事件を受けて、2005(平成17)年6月20日に新人選手獲得活動に関する「倫理行動宣言」が採択された。これは、12球団が05年を球界の改革元年と位置づけ、二度と国民の不信を招くことのないよう、その決意表明として宣言したものである。
 その内容は、以下の4点である。※生島淳(2007)「アマチュアスポーツも金次第」より引用

  • 1.12球団はアマチュア選手に対して利益供与は一切行わない
  • 2.日本学生野球憲章に違背しない
  • 3.違反の疑いがある場合は、調査委員会などを設置する
  • 4.申し合わせに反した場合はコミッショナーの定める制裁に服する

3-4.西武裏金問題

 2007(平成19)年3月9日、西武ライオンズがアマチュア選手2人に対し栄養費などの名目で裏金を渡していたことが明らかになった。のちに金銭を受け取っていた選手は公表され、木村雄太投手(当時東京ガス、秋田経済法科大学付属高等学校(現明桜高等学校)出身、現千葉ロッテマリーンズ)、清水勝仁選手(当時早稲田大学、専修大学北上高等学校出身)だと分かった。木村投手には270万円、清水選手には1025万7800円が渡されていた。
 この問題が発覚したことを受け、倫理行動宣言に基づき調査委員会が設置された。4月4日の中間報告では、この2人の選手以外にも以下の事実が明らかとなった。
1.5選手に契約金の前渡し金などとして、1人当たり30万~280万、総額6160万円を渡していた。
2.最高標準額である1億5千万円を超える契約金の上乗せ分として15選手に計11億9千万円支払われていた。
3.監督や関係者延べ170人に対し謝礼金10万~1千万を支払っていた。
4.アマチュア野球関係者からの金品の要求や、プロの練習への参加などアマチュア選手との接触行為があった。
 こういった事実から、高校野球の特待生問題が取りざたされることにもなった。
 これらの行為に対して、日本野球機構の根来康周コミッショナー(当時)は西武に対し、07年高校生ドラフトの上位2人の指名権剥奪と3000万円の制裁金を科した。また、大学生・社会人ドラフトにおける「希望入団枠」制度を廃止した。これに伴い、全日本大学野球連盟がプロ志望の学生に対し、プロ志望届の提出を義務とし、未提出者はドラフト対象外とすることになった。

3-5.那須野事件

 2007(平成19)年4月11日、横浜ベイスターズの那須野巧投手が12球団の申し合わせ事項である最高標準額をはるかに超える5億3000万円という契約金で契約していたことが、球団の発表で分かった。那須野は、04年のドラフト会議において自由獲得枠で日本大学から横浜に入団していた。つまり、倫理行動宣言が採択される前ではあったが、一場事件よりも後の出来事だった。さらに契約金のうち、3000万円が日大野球部の鈴木博識監督に渡されていたのではないかという疑惑も浮上したが、那須野、鈴木監督ともにこれらの金銭授受を一切否定した。この事件による選手・球団幹部らに課されたペナルティは一切なかった。

4.今後のドラフト制度の在り方(まとめ)

 ドラフト制度を正当化する重要な要素として、以下の4つが挙げられる。

  • 1.契約金・年俸高騰抑制
  • 2.戦力均等化
  • 3.選手の選択権利
  • 4.ファンの期待・楽しみ

 これらの要素を出来る限り満足させることが、今後のドラフト制度を考える上で重要であると考えた。
 そこで予想される3つのパターン「自由競争」、「現状維持」、「完全ウェーバー制」について、上記の4要素についてそれぞれ比較検討した。

表2 予想される3パターンにおける各要素の比較

自由競争  現状維持  完全ウェーバー制
契約金・年俸高騰抑制
×    ○     ○
戦力均等化
×    ○     ◎
選手の選択権利
◎    ×      ×
ファンの期待・楽しみ
-     -       -

 「契約金・年俸高騰抑制」については、自由競争の場合はおそらく不可能であり、現状維持の場合および完全ウェーバー制においては一定の歯止めをかけることができる。
 「戦力均等化」については、自由競争の場合は著しく偏りができ、現状維持の場合は2位以下指名選手に限って戦力均等化の理念に合致しており、完全ウェーバー制の場合は戦力均等化の理念に完全に合致している。
 「選手の選択権利」については、自由競争の場合は完全に自由な選択権利が生じるが、現状維持の場合および完全ウェーバー制の場合は選手の球団選択権利は全く無い。
 「ファンの期待・楽しみ」については、各球団毎で立場・状況が異なるので、一定の尺度で比較することは困難である。
 選手の選択権利を重視すると「自由競争」が最も望ましいが、他の要素のことを考慮すると、現実的な選択肢であるとはいえない。
 「現状維持」と「完全ウェーバー制」を比較すると、戦力均等化という要素で優位に立つ「完全ウェーバー制」が最も望ましいパターンになる。また、「完全ウェーバー制」に移行すれば、NPBの改善しようとする姿勢を示すという効果もある。
 「完全ウェーバー制」に移行した場合のファン、球団、選手の三者にとっての効果を考えた。

  1. ファンの立場からは、完全ウェーバー制に移行すれば現在よりも戦力均等化が促されるため、ペナントレースの結果が終盤までもつれる可能性が高まり盛り上がる。
  2. 球団の立場からは、「契約金高騰の抑制」のほか、「戦力均等化」という点で現状よりも改善される。
  3. 選手の立場からは、現状においても球団選択の権利はないので、完全ウェーバー制に移行したとしても不利益になるというわけではない。

 以上の理由から、我々は日本野球のドラフト制度を「完全ウェーバー制」に移行すべきと結論づけた。

参考文献・URL

  • 矢崎良一(2003)「元・巨人」廣済堂出版
  • ベースボール・マガジン社編(2004)「日本プロ野球70年史」ベースボール・マガジン社
  • 生島淳(2007)「アマチュアスポーツも金次第」朝日新聞社
  • LAP(編)(2007)「ドラフト −光と影」オークラ出版
  • 坂井保之(2008)「深層『空白の一日』」ベースボール・マガジン社
  • スポーツナビ(2009年10月12日閲覧)(http:/sportsnavi.yahoo.co.jp)

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