「日本サッカーミュージアム」視察報告書

報告者:井口知弥・石井友梨・岡本典子(第4期生)
視察日:2011年5月12日(木)

はじめに

 5月12日、私たちは日本サッカーミュージアムに見学に行った。天候は雨、ピッチ状況は悪め、湿気が多く髪は多少乱れるコンディションの中、競歩しながら到着した。

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図1 ミュージアム到着!!

 歴史と伝統を誇る日本サッカー。1921(大正10)年の日本サッカー協会(当時大日本蹴球協会)創設以降、数々の名勝負と感動的なドラマがその歴史に刻まれてきた。
 「日本サッカーミュージアム」には、その日本サッカーの歴史を彩る品や貴重な資料、そして今日の日本サッカーの礎を築いた先駆者たちの功績などが数多く展示されている。また、先日行われた2010年の南アフリカW杯の感動的なシーンも必見であり、大会の感動と歓喜、スケール感といった、サッカーの醍醐味を味わうことができる。

デットマール・クラマーの招聘

 中に入り、私たちは初めに「日本サッカー殿堂」のエリアに案内された。現在の日本サッカーの繁栄は、殿堂入りした55人をはじめ、多くの人々の勇気と情熱、たゆまぬ努力によって築かれたものなのである。多くの偉人たちの中で、私たちは{デットマール・クラマー}という偉人に興味を持ち、調べ、その後の日本代表の発展の歴史について調べた。

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図2 Dettmar Cramer(デットマール・クラマー)

Profile:1925年4月4日、西ドイツ・ドルトムント生まれ。“日本サッカーの父”と呼ばれ、日本の指導者養成、ユース育成の礎を築いた。

 ドイツの複数クラブで選手としてプレーしたが、怪我のために引退し、指導者の道へ進んだ。
 1960年、東京オリンピックを控えた日本代表を指導するため、コーチとして招聘された。日本サッカー協会は代表強化のために外国人コーチを招くことを検討しており、成田十次郎の仲介や、会長である野津謙の決断で実現した人選だった。
 クラマーは、自ら手本となるプレーを見せて実技指導を行った。初歩的な練習の繰り返しに対しては批判もあったが、方針を変えることはなかった。当時の教え子には釜本邦茂、杉山隆一らがいた。
 そして迎えた1964年の東京オリンピック、日本代表はアルゼンチンを破るなどの活躍を見せ、ベスト8の快挙を成し遂げた。役目を終えたクラマーは、帰国にあたって5つの提言を残した。

1.国際試合の経験を数多く積むこと。
2.高校から日本代表チームまで、それぞれ2名のコーチを置くこと。
3.コーチ制度を導入すること。
4.リーグ戦を開催すること。
5.芝生のグラウンドを数多くつくること。
– 三上孝道「日本サッカーの父 デッドマール・クラマーの言葉」

 この提言により、1965年には日本サッカーリーグが発足した。その後も釜本のドイツ留学を実現させるなど、日本のサッカーに貢献。彼の指導を受けた選手・コーチを中心に構成された日本代表はメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した。この試合を観戦していたクラマーは日本代表の活躍を喜んだという。

アマチュア時代の日本サッカー

 クラマーの貢献により、1968年のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得すると、メダル獲得の目的を達成した。これによって、次の目標としてワールドカップ出場にも関心が向くようになり、1970年 メキシコ大会以降、継続的に予選に参加するようになった。しかし、オーストラリア(当時はオセアニアサッカー連盟(OFC)の予選の勝者がアジア予選に参加)やイスラエル(当時アジアサッカー連盟(AFC)所属)といった国々の前に屈し、アジア予選での敗退が続くことになった。この時期も依然としてサッカー界にはアマチュアリズムの精神が色濃く残っていた。当時の日本代表選手にとっては「ワールドカップはプロ選手の大会」という認識だったのである。そのため、ワールドカップはオリンピック前のチーム育成の一環として捉えられることが多かった。例えば、ワールドカップアジア予選に若手を出場させ底上げを図り、主力のA代表(年齢制限のないその国最強の代表)を“本番”の五輪に参加させるといったことも、しばしばあった。また、テレビ放送やサッカー雑誌によってワールドカップの紹介がなされるようにはなったものの、選手もファンも、ワールドカップはあくまでもテレビで観戦するものであり、違う世界の出来事という認識を持っていた。
 日本にとって遠い道程であるワールドカップが身近なものとなったのは、1986年メキシコ・ワールドカップ予選の活躍である。この大会の1次予選を1位で通過すると、日本は2次予選で香港を破り、最終予選となる韓国戦へと駒を進めた。しかし、第1戦ホームでは10番木村和司のFKが決まるも1-2で惜敗。ソウルでの第2戦も0-1で敗れ、日本は本大会出場を逃すこととなった。

Jリーグの開幕とW杯への挑戦

 この敗戦によりアマチュアリズムの限界を悟った日本サッカー協会は、翌1986年にスペシャル・ライセンス・プレーヤー の導入を決定した。また当時のFIFA会長のジョアン・アヴェランジェの意向もあり、ワールドカップ日本開催が俄かに現実味を帯び始めたことで国内での状況にも変化が現れた。日本でワールドカップを開催するとなれば、開催国の名に相応しい強い代表チームが必要となる。その為の強化に関わる様々な改革がなされるようになった。1993年からスタートしたJリーグもその一つである。
 さらに、それまで日本A代表の最大の目標だった五輪が、1992年のバルセロナ五輪から23歳以下の選手の大会に規定が変更された為、日本A代表の目標はFIFAワールドカップへと完全に変わることになった。
 1992年3月に、日本のクラブを指導し実績を上げていたハンス・オフトを日本代表初の外国人監督として就任させ、それまで出場したことのないワールドカップ本大会への挑戦が本格化した。強化は順調に進み、1994年アメリカ大会アジア予選では最終予選に進出する。しかし、イラクと対戦した最終戦でロスタイムに同点に追いつかれ引き分けたため、あと一歩のところで出場権を逃した(ドーハの悲劇)。    1998年フランス大会は、日本にとってワールドカップ本大会初出場を自力で果たす最後のチャンスとなった。というのも、1996年に日韓共催の形でワールドカップが日本で開催されることが決定していたためである。フランス大会予選では、アジア地区最終予選グループでは韓国に次ぐ2位となったものの、プレーオフでイランを破って初出場を遂げた(ジョホールバルの歓喜)。なおフランス大会では本大会出場国数の増加(24→32)に伴ってアジアからの本大会出場枠が前大会の2から3.5に増えていた。

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図3 ドーハの悲劇

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図4 ジョホールバルの歓喜

日本サッカーW杯の軌跡

 初の本大会出場を果たした1998年フランス大会では、グループリーグでアルゼンチン・クロアチア・ジャマイカと対戦。アルゼンチン戦・クロアチア戦をともに0-1で落とし、早々とグループリーグ敗退が決定。最終戦となったジャマイカ戦では中山雅史がチーム初得点こそ挙げたものの、試合は1-2で敗戦。結局、グループリーグ3戦全敗で初のW杯本大会を終えた。
 2度目の本大会出場となった2002年日韓大会では開催国のため予選免除での出場。1990年代のサッカー界の改革の元で育成された選手達が中心になったチームは、本大会グループリーグ初戦のベルギー戦を2-2で引き分け、初の勝ち点を獲得すると、続く第2戦でロシアを1-0で降し、W杯初勝利。そして、最終戦となったチュニジア戦も2-0で勝ち、グループリーグを2勝1分で1位通過。決勝トーナメントに駒を進める。決勝トーナメント1回戦ではトルコと対戦したが、0-1で敗戦。ベスト16という成績で地元開催のW杯を終えた。
 2006年ドイツ大会では、2大会ぶりに予選に参加し、アジア地区予選を1位で通過。3大会連続の本大会出場を果たす。本大会では、初戦でオーストラリアと対戦したが1-3で逆転負け。続く第2戦のクロアチア戦では0-0の引き分け。第3戦のブラジル戦では1-4で逆転負けし、通算2敗1分でグループリーグ敗退に終わった。
 2010年南アフリカ大会は、2009年6月6日のアジア地区最終予選においてウズベキスタンに勝利。2試合を残して4大会連続4度目の本大会出場を決め、2006年大会に引き続き、2大会連続で世界最速で本選出場権を手に入れた。本大会のグループリーグではE組に入り、岡田武史監督及び日本サッカー協会は「ベスト4」を目標に掲げた。先ずは初戦のカメルーン戦を1-0で勝利し、他国開催でのW杯初勝利を挙げた。第2戦のオランダ戦は0-1で敗れたが、最終戦のデンマーク戦を3-1で勝利し、通算2勝1敗のグループ2位で2大会ぶりのグループリーグ通過を果たした。決勝トーナメント1回戦ではパラグアイと対戦し、0-0のまま延長戦でも決着せずPK戦にもつれ込んだが、3-5で敗れベスト16で敗退した。
 多くの歴史を築いてきた日本代表、その歴史を感じる展示物に私たちはとても興味を持ち、見学した。

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図5 トロフィーの数々

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図6 歴代のユニフォーム

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図7 円陣の中唯一カメラ目線のきお

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図8 キャプテンちえこ

最後に私たち後藤ゼミの歴史も刻んでいくために、プリクラを撮った。

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図9 プリクラ♪

まとめ

 この見学会は、本当に心に残る、また、さらにサッカーを好きになった時間だった。来年のゼミ生にもこの同じ感動を味わってもらいたい。そして、サッカーミュージアムの職員のみなさん、お忙しい中、私達のために、会館前にも拘わらず、館内の案内をしていただきありがとうございました。

参考文献・URL

・日本サッカーミュージアムパンフレット
・ウィキペディア http://ja.wikipedia.org