靖国神社・遊就館を見学して

報告者:新涼太・小寺淳平・山浦由佳(第4期生)
視察日:2012年1月12日(木)

はじめに

 2012年1月12日、後藤ゼミ4期生は、靖国神社境内で初詣を行ない神社内の遊就館を見学した。4期生は就職活動中ということもあり参加できない者もいた。また気温が低いこともあり、震えながらの集合だった。初詣で就職活動の成功を祈り、おみくじで今年の運気を占い、遊就館で日本の歴史を感じた。靖国神社と遊就館の展示物などから靖国神社の運営、飯田房太、回天の3つに興味を持ったので詳しく調べることにした。

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図1 靖国神社で集合写真

1.運営・収入面からみる靖国神社

 戦前は英霊を祭った国営神社であった靖国神社であるが、現在は民間の宗教法人として運営されている。しかし、その特異な性質上、単立神社として神社本庁との包括関係に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社、神社本庁双方の判断によるものである。ただ、包括・被包括の関係に無いながらも、密接な関係を保っている。その一つとして、神社本庁は「靖国神社崇敬奉賛会」の法人会員となっていることが挙げられる。また神社本庁に属さない神社であるため、宮司以下の神職は神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。その例として、第6代宮司の松平永芳はもともと神職ではなかった。この場合、まず祭式などの研修を受けることになる。そして神社の運営は、主に宮司や信者の代表組織「崇敬総代会」によって決められている。今現在、靖国神社には総勢108人が奉職している。組織としては部署が5つあり、宮司がそれらを統括し、権宮司が宮司を補佐している。
 収入の面では1869年には明治天皇により1万石の社領を下賜されていたが、国の財政難のために漸次減らされた。しかし、賽銭収入だけでも、1891年に当時の金額で約14万円あったものが、日露戦争後に急増し約170万円にもなった。これも全国から戦死者の遺族が参詣した結果である。以後も寄付金や招魂式の際などに、皇室・政府からの定期的な収入があった。近年の年間予算は20億円を超え、そのほとんどが戦没者遺族、戦友などからの奉納金で維持・運営されている。このほか、付属施設である遊就館の入館料や、売店および境内にある茶店の売り上げなども貴重な収入源となっている。しかし、遺族会に代表される戦中世代が亡くなり続けているのに伴い、主要な収入源である大口の寄付も減少傾向にある。さらに、崇敬奉賛会の会員数も年々減少していることから財政難に陥り、職員のリストラも進められているなど、財政面は下降の一途をたどっている。

2.真珠湾に散った勇敢な日本兵:飯田房太(いいだ ふさた)

 数多くの戦死者のなかから飯田房太を選んだ理由は、遊就館に展示してあった飯田房太の特集を見てとても感動したからである。飯田の特攻に関する記述を呼んでいると胸が熱くなる思いだった。そして、飯田の人生そのものを知りたくなり今回調べることにした。

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図2 飯田房太

 1913年(大正2年)2月12日、山口県豊田村で生を受けた。1人っ子ということもあり、大切に育てられたせいか、おとなしく気のやさしい子供であった。体が弱かった飯田は小学校の上級生になると自分で体を鍛え始めた。常に級長をつとめていたが決して怒ったりはせず「お嬢さん」というニックネームをつけられていた。成績はいつもトップであったが、中学受験の際には入試の前日までキャッチボールをする程活発であり、決してガリ勉タイプというわけではなかった。
 1914年(大正14年)4月、徳山中学校に合格した。相変わらず茫洋(ぼうよう)として無口で、それでいて何となく人に頼りにされ好かれるというタイプであった。3年になると先生のすすめで、その頃まとまりの悪かった籠球部に入るように言われ、あまり乗り気ではなかったが断れず入部することとなった。すると、1年たらずで籠球部をまとめあげ県下の大会でも優秀な成績を納めるようになった。このころから飯田は生粋のリーダー気質だったのかもしれない。飯田は5年の時に高校受験はしなかった。その理由は、受験すると先生から籠球部を任された信頼に十分最後まで応えることができないから、というものであった。このように飯田は純朴で責任感の強い少年であった。
 1931年(昭和6年)4月、兵学校に入学した。相変わらずのんびりとして余裕綽々(よゆうしゃくしゃく)の生活態度で、クラスの皆から好かれそして頼りにされていた。成績に対して無頓着であったが、兵学校を卒業するときには上から5番の成績と優秀であった。
 軍に入隊後、1936年(昭和11年)4月に少佐に任官し、軽巡洋艦「那珂(なか)」の乗組員となった。飯田はこのころから飛行機の搭乗員を志望していた。当時、飛行機の搭乗員を志望してもなかなかなれるものではなかったが熱心に教官に懇願し、ついに同年12月に霞ヶ浦海軍航空隊の飛行学生になることができた。1937年(昭和12年)9月、飛行学生を首席で卒業しその年に大尉に進級した。佐伯海軍航空隊・大村海軍航空隊をへて航空母艦「蒼龍」に配属された。1939年(昭和14年)、霞ヶ浦海軍航空隊の教官として内地に帰還した。温和な性格であり部下から慕われていた。1941年(昭和16年)、飯田房太の母ステのもとに房太愛用のカメラが送られてきた。「しばらく使うこともないから大切に保存してほしい」と書かれていた。これが最後の手紙で、カメラは彼の形見となった。
 1941年(昭和16年)12月、真珠湾攻撃の際、飯田は制空隊の中隊長であった。飯田は攻撃隊を先導しカネオヘ基地・ベローズ陸軍基地を攻撃しアメリカ軍に甚大な損害を与えた。銃弾を撃ちつくすと編隊をカネオヘ上空へもってゆき、飯田は仲間の藤田に手信号でこのように伝えた。「われ、下に突っ込む、さようなら」、このとき飯田の機体の燃料タンクは撃ち抜かれており燃料が漏れだしていた。手を振って反転し、編隊を離れてカネオヘ基地へ急降下して格納庫に突っ込んでいった。出発前、「もし燃料タンクを撃たれたり、燃料がなくなったりした場合は地上に好目標を見つけて自爆する」と話していた飯田は自分の言葉を忠実に守った。1941年(昭和16年)12月8日、9時30分、29歳という若さで飯田房太はこの世を去った。飯田の特攻を目撃したカネオヘ基地防備隊コンラッド・R・フリーズはその敢闘ぶりに感動した。戦後フリーズは飯田の遺族に「とにかく飯田隊長は勇敢であり、その攻撃は100%成功した」と伝えた。飯田房太は現在もカネオヘ基地で安らかに眠っている。

3.逆転を狙った有人特攻魚雷:回天

回天とは丸三式3型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷のことである。この回天は、終戦後ハワイの米陸軍博物館に展示されていたが、当局の好意により1979年(昭和54年)10月、靖国神社に永久貸与されたものである。
 回天とは、太平洋戦争中の旧日本海軍が人間魚雷として開発した日本初の特攻兵器である。人間魚雷の概念は、太平洋戦争において日米の隔絶した工業力の差から戦局を打開するためには「有人の水中兵器(ゆくゆくは航空機)を主体とした特攻」による敵艦隊撃滅以外にはないと提唱したことにはじまる。しかし、海軍は当初、生還の見込み無い出撃は許可しないとして、提唱者らは海軍内で孤立していた。その後の戦局の悪化は著しく、マーシャル失陥、トラック空襲により、1944年2月26日、中央は海軍工廠魚雷実験部に黒木博司・仁科関夫に人間魚雷試作を命じた。このときには、「乗員の脱出装置なしでは兵器として絶対採用しない」との条件が付された。また1944年4月には、この人間魚雷の施策案に〇6の仮名称がつき、艦政本部では担当主務部を定め、特殊緊急実験が開始された。1944年9月1日、山口県の大津島に板倉光馬少佐、黒木、仁科が中心となり基地が開隊された。5日より、全国から志願して集まった搭乗員たちによる本格的な訓練が開始された。これが特攻の始まりである。9月6日、訓練中に提唱者の1人黒木が事故死したが、これは逆に「黒木に続け」として搭乗員たちの士気を高めることとなった。搭乗員は昼の猛訓練と夜の研究会で操縦技術の習得に努め(不適正と認められた者は即座に後回しにされた)、技術を習得した優秀な者から順次出撃していった。
 回天の総合結果は、アメリカ側の秘密文書公開と戦後の「全国回天会」の調査により以下が判明している(魚雷攻撃による戦果も含まれる)。なお、1回目の出撃である1944年11月20日に戦艦ペンシルベニアを撃沈しているとの報告が日米双方に存在したが、実際にはペンシルベニアは大戦を生き延び、戦後のビキニ原爆実験における2度の核爆発さえも耐え抜いて沈まずに解体処分されている。

回天による攻撃(発信49基=搭乗員)

・1944年11月20日 給油艦ミシシネワ 撃沈
・1945年1月12日 輸送艦ポンタス・ロス 小破
・1945年1月12日 歩兵揚陸艇LCI-600 撃沈
・1945年1月12日 弾薬輸送艦マザマ 大破
・1945年1月12日 戦車揚陸艇LST225 小破
・1945年7月24日 駆逐艦アンダーヒル 撃沈
・1945年7月24日 駆逐艦R・V・ジョンソン 小破
・1945年7月28日 駆逐艦ロウリー 小破

 戦後、死を覚悟しなくてはならない特攻兵器のイメージから「強制的に搭乗員にさせられた」、「ハッチは中からは開けられない」、「戦果はほとんどなかった」などの作戦に対する否定的な面、または事実とは異なる説が強調された。実際にはハッチは内部から開閉できるものであった。また搭乗員は操縦の特異性から転用ができないため、全てが回天戦のために選抜され訓練を受けた優秀な若い志願兵であった。ただし当時の状況において、志願そのものは拒否の許されるものではなかった。また戦果に関しては49基出撃の結果に対し撃沈4隻と乏しく、回天は輸送し発信させる潜水艦の損耗率も高かった。戦死者・殉職者の遺族・生き残った搭乗員は、戦後多くの精神的な苦しみを得たとされる。しかし、兵器の非人間性の一方で、国や同胞を救おうと国難に立ちあがったその志については、生き残った搭乗員やそれを知る関係者が共に認めるところである。

おわりに

 靖国神社・遊就館を見学して、日本の重い歴史に触れることができた。普段、目を背けがちな問題であるが、現在平和に暮らせているのも戦争で犠牲になった方々がいてこそ成り立っているのだと改めて感じた。日本の歴史をしっかりと認識することも、これから社会人になる私たちにとって大事なことの1つである。

参考文献

飯田房太 http://navy75.web.infoseek.co.jp/kaisouroku/kaiso-25.html
靖国神社・遊就館 http://homepage3.nifty.com/ki43/heiki/yasukuni/yasukuni01.html