「日本サッカーミュージアム」視察報告書

報告者:鈴木悠・高橋育恵・成田翔平・安永萌子(第5期生)
視察日:2012年5月22日(火)

はじめに

 2012年5月22日、「日本サッカーミュージアム」の見学に行った。昨年第4期生の先輩方が、視察した時と同様に雨が降りしきる中、私たちは現地へ向かった。

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図1 到着!記念写真

日本サッカーミュージアム

 歴史と伝統を誇る日本サッカー。1921年のJFA(当時大日本蹴球協会)創設以降、数々の名勝負と感動的なドラマがその歴史に刻まれてきた。「日本サッカーミュージアム」には、その日本サッカーの歴史を彩る品や貴重な資料、そして今日の日本サッカーの礎を築いた先駆者たちの功績などが数多く展示されている。
 史上初の共同開催となった2002年の日韓W杯や2010年の南アフリカW杯の感動的なシーン、また記憶にも新しい2011年、ドイツで開催された女子サッカーW杯で優勝という快挙を成し遂げた女子日本代表(通称 なでしこジャパン)の軌跡や大会の歓喜やスケール感といった、サッカーの醍醐味を味わうことができる。
 この日本サッカーミュージアムはJR御茶ノ水駅を出て徒歩6分、東京都文京区のサッカー通り沿いに位置している。2002サッカーW杯の熱狂や感動と、日本サッカーの歴史を次世代の人々に継承し、サッカー文化を普及させるため設立された。また、日本サッカー界の情報発信の場や、サッカーを通じた世界の人々との出会いの場として活用されることも意図され、2003年12月22日にグランドオープンした。
施設は地上1階、地下1階、地下2階の3フロアーから成り立っている。地上1階、地下1階(レファレンスコーナーを除く)は入場無料である。地下2階および地下1階レファレンスコーナーは有料で、大人500円、小中学生300円、幼稚園児以下は無料。但し身体障害者、20名以上の団体(学校・企業関係者など)とJFAファミリー(日本協会加盟各団体に登録している選手・審判員ら)に関してはそれぞれ100円引きになり、団体入場は事前の予約が必要である。

サッカー日本代表

 サッカー日本代表は、日本サッカー協会 (JFA) によって編成される日本のサッカーにおける国家代表チームである。愛称は「SAMURAI BLUE(サムライ・ブルー)」と定められている。JFAは一般投票を行い、「SAMURAI BLUE 2006」を2006年W杯に向けた愛称にすることを発表したのである。
 現在アルベルト・ザッケローニ監督を中心として構成されており、その他にも、コーチとしてステファノ・アグレスティ 、GKコーチはマウリツィオ・グイード 、フィジカルコーチはエウジェニオ・アルバレッア、アシスタントコーチは和田一郎とたくさんの方々がいる。
 W杯には4回出場し、2002 年と2010年に最高成績となるベスト16に入った。AFCアジアカップでは最多となる4回の優勝を記録している。今までの日本代表は4ー4ー2のポジションだったが、ザッケローニ監督になって3ー4ー3になった。その理由としてサイドで数的有利を作るためである。また、日本代表のプレースタイルとしては中盤にテクニックのある選手を揃えショートパスを丁寧に繋ぐ事が挙げられる。
 今、日本代表には、GK3人、DF9人、MF6人、FW7人が入っている。1980年生まれの中村憲剛が一番年長者であるが、素晴らしい活躍をしている。
 現在は日本代表の基本色として青、サブカラーに白を使用している。青は「日本の国土を象徴する海と空の青」を表すとされている。

なでしこジャパン

 サッカー日本女子代表は、JFAにより編成される女子サッカーの日本代表チームである。愛称は「なでしこジャパン」であり、女子W杯には全6大会に、オリンピックには4大会中3回に出場している。2011年の女子W杯ではアジア勢の代表チームとしては初優勝を成し遂げた。

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図2 澤穂希選手書「なでしこジャパン」

 「なでしこジャパン」の愛称は2004年から採用され、その由来は、アテネオリンピックアジア予選として行われた「AFC女子サッカー予選大会2004」の際、「大和撫子」(やまとなでしこ)という言葉がよく使われたためと、その大和撫子が「世界に羽ばたき、世界に通用するように」との願いを込めて「大和」が「ジャパン」となったものである。2004年と2011年には新語、流行語大賞候補にノミネートされ、2011年には年間大賞となった。

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図3 女子W杯優勝の際の写真

サッカー日本女子代表の歴史

鈴木保・宮内聡監督時代
 女子サッカーがオリンピック種目となったのは1996年のアトランタ大会からである。 出場権は前年開催の第2回FIFA女子世界選手権スウェーデン大会での上位8カ国とされたが、鈴木保率いる日本女子代表は、この選手権においてベスト8の出場権を獲得した。しかしアトランタオリンピック本大会ではグループリーグで全敗に終わり、突破はできなかった。2000年のシドニーオリンピック出場に照準をあわせた宮内聡率いる日本女子代表は、1999年6月、五輪予選を兼ね開催された第3回FIFA女子世界選手権・アメリカ大会で初戦のカナダに引き分けたものの、ロシアとノルウェーに敗戦し、目標のシドニー五輪出場権を獲得できなかった。

上田栄治監督時代
 2002年8月、マカオ男子代表の監督を務めていた上田栄治が代表監督に就任した。2003年6月、タイのバンコクで行われた「第14回アジア女子選手権」は第4回女子W杯(アメリカ大会)のアジア地区予選を兼ねる大事な大会であったが、3位決定戦で韓国に敗戦し、残る出場枠を賭けてメキシコと対戦することになった。完全なアウェー戦であったが、2-2の引き分けとした。そして7月12日、国立競技場で行われたホーム戦は、澤穂希と丸山桂里奈のゴールにより2-0で勝利し、W杯出場権を獲得した。このワールドカップ本大会では、アルゼンチン戦でFW大谷未央がハットトリックを決め6-0で勝利したがドイツに0-3で敗戦し、続くカナダ戦は先制しながらも1-3で敗れ、グループリーグ敗退という戦績で終わった。
 2004年4月、「AFC女子サッカー予選大会2004」が日本で開催された。アテネオリンピックのアジア2枠を決める予選である。日本代表は3グループに分かれ、1次リーグではベトナムに7-0、タイには6-0で勝ち、決勝トーナメントで強豪国、北朝鮮を圧倒的不利の予想を覆す3-0で撃破し、2大会ぶり2度目の五輪出場を果たした。8月に開催されたアテネオリンピック本大会では、グループステージにおいて強豪スウェーデンを1-0で破る活躍を見せ、続くナイジェリア戦では0-1で敗れたが、他グループ3位との総得点差で決勝トーナメント進出を果たした。決勝トーナメント初戦、優勝候補アメリカ合衆国に1-2で敗れベスト8に終わったが、チームは3試合を通して「警告、退場者ゼロ」により「フェアプレー賞」を受賞した。

大橋浩司監督時代
 2004年10月、JFAは前月に退任した上田の後任に大橋浩司を新監督として任命した。11月から代表合宿を行い、12月18日のキリンチャレンジカップ、チャイニーズタイペイとの対戦は、大量得点に加え、被シュートゼロの11-0で完全勝利した。一方、ユニバーシアード日本女子代表は2003年大邱大会で銀メダル、2005年イズミル大会で銅メダルを獲得した。2006年にカタールの首都ドーハで行われた第15回アジア競技大会では、坂口夢穂、永里優季という新戦力が活躍し、グループリーグで強豪の中国を破り決勝トーナメントへ進出し、決勝では同じく強豪の北朝鮮にスコアレスでPK戦まで持ち込んだものの敗れ、準優勝となった。2007年4月から8月に行われた北京オリンピックアジア予選では5勝1分で北京オリンピック出場権を獲得した。9月、中国で開催された2007女子W杯ではグループリーグA組となり、アルゼンチンに勝利したが、イングランドと引き分け、最後のドイツに敗北しグループリーグ敗退となった。
そして現監督である佐々木則夫監督へと続く。

佐々木則夫監督
 佐々木監督は、1958年生まれの山形県出身、現在は埼玉県在住である。小4からサッカーを始め、1974年に帝京高校へ入学し、1976年にはインターハで全国優勝した。そして、1977年明治大学文学部入学し、卒業後は日本電信電話公社へ入社した。1990年選手引退後、NTT関東サッカー部(現 大宮アルディージャ)のコーチとなり、1998年監督になった。1999年から強化普及部長を務め、2004年よりユースの監督になり、さらには2006年なでしこジャパンのコーチに就任すると、2008年からは監督として采配を揮い、北京オリンピックベスト4、2010年アジア大会初優勝を果たすと、2011女子W杯(ドイツ)では、日本サッカー初の世界一へと導いた。

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図4 佐々木則夫監督

 女子サッカーは男子サッカーと比べて、天と地の差である。試合の移動の飛行機はエコノミークラスであるし、昼は会社勤めやアルバイトを含むさまざまな仕事で生活費を稼ぎ、夜に練習という毎日を送る。所属チームから給料が出ない選手もいる。昼から練習するなど夢のまた夢、というわけである。その中で日本代表に入りサッカーをしていくのは大変である。
 2007年の監督就任以来、佐々木監督は選手と積極的にコミュニケーションをとり、練習でも佐々木監督らしく明るい雰囲気づくりをしていった。
 しかし、監督はただふざけているばかりではない。コーチ時代から、「自分は選手たちのボスではなく、兄貴分あるいは父親役として振る舞わねばならない」という信念を持っていた。元なでしこジャパンのメンバーで浦和レッズレディース選手の荒川恵理子は回想する。
 「イタリア遠征に行ったとき、飛行機が丸一日飛ばないというハプニングがありました。近くのホテルも満室で、仕方なく寒い空港の中で一夜を明かしたんですが、このときノリさんは全員分の毛布を集めてきてくれたんです。空港側と交渉して借りてきたらしいんですが、横になっている選手に毛布をかけているのを見て、この人は本当に頼りになるなと思いましたね。」
 経済的な苦労も多い中、必死にサッカーを頑張っているなでしこたちにとって、監督の家族のような温かい気配りはこの上なく嬉しいものだろう。
 また、監督は常に選手を見ており、調子を落としている選手や試合に出ていない選手の気持ちを感じケアを欠かさない。「お前をちゃんと見てるよ」ということをきちんと伝える。練習の合間にポンポンと肩を叩いたりして選手を安心させる。
 このような配慮は選手だけでなくスタッフにも行き届いている。チームのミーティングでは普通、スタッフが撮影、編集したビデオを見ながら監督が説明していくのだが、女子の場合は必ずしもそうではない。スタッフが編集したビデオであるためその人にしか気づかない部分があるはずだとその編集したスタッフに説明を求めることがある。そうしていくことでスタッフもやる気が出て、監督、選手、スタッフのすべてが協力して「なでしこジャパン」という日本代表ができあがっていくのである。
 我々は今回佐々木監督を調べて、女子サッカー日本代表がここまで強くたくましくなってきたのは選手のたゆまぬ努力とこの佐々木監督という存在が大きくかかわっているのではないかと考えた。そしてこれからの女子サッカーに大きく期待していきたいと思う。

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図5 澤穂希が着用したユニホーム

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図6 「なでしこの書」

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図7 川澄奈穂美選手書「夢」

最後に私たち後藤ゼミの歴史も刻んでいくために、プリクラを撮った。

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図8 岩清水梓選手書「東北魂」♪

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図9 日本代表 橋口選手

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図10 集合写真

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図11 そしてまた歴史を刻む

最後に

 我々は、今回のサッカーミュージアム視察を通してサッカーへの関心が増し、より一層好きになった。なでしこジャパンのゴールシーンを見たときには鳥肌が立った。「スポーツはすばらしい!」と改めて感じることが出来た時間でもあった。サッカーミュージアムの職員の皆様、開館前にも拘わらず、後藤ゼミのために案内して頂きありがとうございました。今後とも、後藤ゼミを宜しくお願い申し上げます。

参考文献・URL

・2002FIFAワールドカップ記念日本サッカーミュージアムHP  http://www.11puls.jp/
・ウィキペディア  http://ja.wikipedia.org
・ライツネットワークメンバー  http://www.s-rights.co.jp/member/athletes/sasaki_n.html
・2011年8月03日(水) 週刊現代記事より http://gendai.ismedia.jp/articles/-/13867?page=5