「靖国神社・遊就館」視察報告書

報告者:稲垣海聖、牛原寛章、長野麻耶、長谷川奈央(第6期生)
視察日:2014年1月9日(木)

はじめに

 2014年1月9日、後藤ゼミ6期生は靖国神社視察を行った。前日の天気予報ではあいにくの雨模様とのことであったが、当日はなんとか雨に見舞われることなく視察することができた。初詣を終えて遊就館に向かい展示物などをみる中で、靖国神社の歴史と現在国際問題になりつつある靖国問題、また遊就館について興味を持ち詳しく調べることにした。

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図1 拝殿前にて集合写真

1 靖国神社の歴史

  • 1-1 明治維新から始まる近代的国家づくり

 1896(明治2)年に東京招魂社として創建されたことが始まりである。明治以後は、国を統一するため、国家主義の考え方から天皇を国の中心に据え、神社神道を国の宗教として定め、国民道徳の根本として、国民に崇拝・信仰を促した。当時の日本は、近代的統一国家として大きく生まれ変わろうとする歴史的大変革(明治維新)の過程にあった。それ以前は日本は徳川幕府の政権下にあり、約250年にわたって鎖国政策をとり海外との交流を厳しく制限してきた。ところが、アメリカや西欧諸国のアジア進出に伴って日本に対する開国要求が強まると、開国派と鎖国派の対立が激化し、日本の国内は大きな混乱に陥った。そうした危機的状況を乗り切る力を失った徳川幕府は、ついに政権を天皇に返上し、日本は新たに天皇を中心とする近代的な国づくりに向けて歩み出すこととなった。
 近代国家への歩みを進める中そうした大革命は新政府軍と旧幕府軍が国家体制をめぐって国内に避けることのできない不幸な戦い(戊辰戦争)を引き起こした。戊辰戦争は1868年の鳥羽・伏見の戦いに始まり、激戦地は上野から会津へと東に移り、69年の函館・五稜郭における無血開城によって新政府軍が勝利をおさめた。この戦いによって明治新政府軍には3500人を超える戦死者が出て、近代国家建設のために尽力した多くの同士の尊い命が失われる結果となった。そこで明治天皇は明治2年6月、国家のために一命を捧げたこれらの人々の名を後世に伝え、その御霊を慰めるために、東京九段のこの地に「招魂社」を創建したのである。

  • 1-2 戊辰戦争後の東京招魂社

 創建後の東京招魂社には、1874年に江藤新平が不平士族を率いた佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争などで新たに戦没者となった人々が合祀され、また、ペリーが浦賀に来航して以来の日本の将来のために命を落とした人々、各地の招魂社に祀られている人々も合祀されるようになった。
 始めは仮殿であった建物も、社殿が整えられるにつれて戦没者をとむらい慰霊するための国の中心的施設にふさわしい社号が望まれるようになった。この招魂社が今日の靖国神社の前身で、明治12年(1879)6月4日には社号が「靖国神社」と改められ別格官幣社に列せられた。

2 靖国問題

  • 2-1 靖国問題とは

 靖国神社について「国に殉じた先人に、国民の代表者が感謝し、平和を誓うのは当然のこと」という意見の一方、政教分離や戦前(大東亜戦争・太平洋戦争)の日本について侵略だったか自衛だったかといった歴史認識、日本の支配及び日本軍が送られ犠牲者も出た近隣諸国への配慮からも政治家・行政官の参拝を問題視する意見もある。特に戦争被害を受けたという韓国、中国、北朝鮮は政治家・行政官の参拝に強く批判している。このことを「靖国問題」と呼ぶ。

  • 2-2 争点

靖国問題における争点は以下の5つである。

  • (1)信教の自由に関する問題
  • (2)政教分離に関する問題
  • (3)歴史認識・植民地認識に関する問題
  • (4)戦死者・戦没者慰霊の問題
  • (5)A級戦犯に対する評価の使い分け

 今回はこの中の(3)について調べた。具体的には日本人が戦争責任をどのように認識し、敗戦以前の日本の軍事的行動に対するいかなる歴史認識を持つことが適切であるか、という論点を中心に展開され、特に極東国際軍事裁判で戦争犯罪人として裁かれた人々の合祀が適切か否かの議論である。対外的には、交戦相手国である中国、日本に併合された韓国や北朝鮮の国民に不快感を与え、外交的な摩擦を生むこともある靖国神社への参拝が適切かどうか、という論点を中心に展開される。

  • 2-3 日中韓の関係

・日中韓での支配問題における主な出来事

  • 1910年 韓国併合 日本による朝鮮半島領有が始まる。
  • 1931年 満州事変 関東軍(大日本帝国陸軍)による満州国全土の占領。
  • 1945年 赤軍(ソビエト連邦軍)による満州侵攻と、日本の太平洋戦争の敗戦によって満州国滅亡。ポツダム宣言受諾。日本の朝鮮半島領有が終了。

  靖国神社の参拝について韓国、中国が批判する根底にあるものは、日本による朝鮮半島と満州国の支配である。 そして現在、中国は靖国問題について「日本軍国主義の責任者の象徴」であるA級戦犯を、現在の日本の行政の最高責任者である首相や行政府の幹部である閣僚が、「賞賛または称揚」することは「歴史問題」となり、絶対に容認しないという見解である。 韓国は「A級戦犯が合祀されている靖国神社に首相や閣僚が参拝すること」を問題視しているが、韓国の場合は、日韓併合から日本の降伏までの間は、日本に併合されていたため、日本の交戦相手国や戦勝国ではないと同時に、旧日本軍側としての募集や徴用の結果、靖国神社への合祀者が存在する。このため韓国および台湾では、「靖国神社合祀取り下げ訴訟」も発生している。

  • 2-4 日本政府の見解

 日本政府は、連合国との講和条約の発効後、条約の第11条に基づいて極東国際軍事裁判に参加した全ての国の政府と交渉して、服役中の受刑者に対する恩赦と刑の執行終了・釈放の合意を形成し、服役中に死亡した者を除いて全員を恩赦により刑の執行を終了し釈放した。日本の国会は、国内・国外の軍事裁判で戦犯として有罪判決を受けた者は、国内法では犯罪者ではないと決議した。 2005年10月25日の衆議院において、当時の小泉内閣は、政府は第二次大戦終結後の極東国際軍事裁判所やその他の連合国戦争犯罪法廷の判決により、A級・B級・C級の戦争犯罪人として有罪判決を受けた軍人、軍属らが死刑や禁固刑などを受けたことについて、「我が国の国内法に基づいて言い渡された刑ではない」と回答し、戦犯の名誉回復については「名誉」および「回復」の内容が明確ではないという理由で回答を避けた。首相の靖国神社参拝に関しては公式参拝であっても、「宗教上の目的によるものでないことが明確な場合には、日本国憲法第20条第3項(国の宗教的活動禁止)に抵触しない」との見解を示した。

3 遊就館について

  • 3-1 遊就館の基本情報

・遊就館基本情報

  • 開館時間 午前9時~午後4時30分
    • ※元日 午前0時~午後4時30分
    • ※みたままつり期間中(7月13日~16日)、午前9時~午後9時
    • ※入館は閉館の30分前まで
  • 休館日 年中無休(ただし6月末に数日間の臨時休館日あり)
  • 拝観料 大人800円、大学生500円、中学・高校生300円、小学生以下無料
  • 撮影 展示室でのカメラ・ビデオ撮影、模写及び録音は禁止、玄関ホールのみ撮影可
  • 3-2 遊就館の歴史

 遊就館の設立の案は西南戦争の終戦の頃、明治10年に初めて出され、明治12年に陸軍卿・山県有朋を中心とし、「御祭神の遺徳を尊び、また古来の武具などを展示する施設」詳しくは幕末維新の新政府軍(官軍)戦没者のご遺品を展示するといった目的で構想され、明治14年に竣工、15年2月25日に開館式が行われた。「額堂並に武器陳列場」と初めは館名を仮称していたが、後の宮内大臣田中光顕伯爵が学者吉雄菊瀕の原案に基づき正式名称を「遊就館」と決定。
 その後、第二次世界大戦の影響で遊就館は閉館していたが、昭和60年12月に遊就館の改修工事が竣工、昭和61年7月には展示物が集約し、およそ40年ぶりに遊就館は再び開館した。その後、靖国神社御創立130年を記念するとともに、平成14年7月13日、靖国神社御創立130年を記念するとともに本館を全面改装し、現在に至っている。

  • 3-3 館内概要

 遊就館の外観は平成14年の全面改装により、靖国神社の敷地内ではあるがガラス張りの壁など現代風ともいえる建造物となった。遊就館内の展示室は2Fまであり、「日本の武の歴史」などが展示された19に区分けされた展示室に加え、1Fの大展示室には操縦士ごと敵艦に当たりにいく人間魚雷「回天」や艦上爆撃機「彗星」、ロケット推進機「桜花」、国外の戦地で戦後収集された多くの戦跡収集品などが展示してある。2Fには天皇陛下より下賜された御神宝や太政官よりの御沙汰書などが展示してある特別陳列室がある。

  • 3-4 靖国の神々

 遊就館視察を通し、特に心に残ったのは展示室1F、「靖国の神々」。ここでは家族に宛てた御祭神のご遺書が展示されているが、私たちはここで非常に感銘を受けた。まだ若い男性が最期に記した家族を想う気持ちは現代の私たちには全くはかり知れないもので、長い文章で書かれているご遺書でも短い文章のものでも思いが同じように伝わった。まだ若い男性だが、彼らはすでに父親のような役割であった。母親などの女性を残して先立つことは男性にはとても大きな心配であっただろう。しかし最期の言葉は全て前向きな言葉で、この先の家族の幸せを願うばかりであり、どんな言葉よりも痛烈で勇敢であった。戦争の知識がまだ浅はかな私たちであっても遊就館を視察した結果、現代の日本がどれだけ平和であるかを改めて思い知らされた。
 しかし、ここで私は一つの疑問を浮かべた。靖国神社には戦没者の身元がわかっているご遺骨が納められている。そこで考えたのは、身元が不明であったり、遺族に引き渡すことができない戦没者(以下、無名戦没者という)のご遺骨を納める場所はないのであろうか、と。
 調べてみた結果、無名戦没者の遺骨を納めるために国が設けた場所が「千鳥ヶ淵」に存在していることがわかり、この経緯をまとめてみた。

4 千鳥ケ淵戦没者墓苑

 そもそも第二次世界大戦による海外戦没者の遺骨は、「日本国との平和条約」を機会に、国として収集を行うとされ、昭和28年1月から本格的に政府による収集が行われた。しかしながら、収集された遺骨の大部分は、氏名の判別が困難で遺族に引き渡すことが不可能であることから、これらの遺骨については、昭和28年12月の閣議決定(「無名戦没者の墓」に関する件)において、遺族に引き渡すことができない戦没者の遺骨を納めるため、国は「無名戦没者の墓」を建立するとした。
 このような経緯で着工が始まった「千鳥ケ淵戦没者墓苑」は、昭和34年に国によって竣工され、ここを無名戦没者のご遺骨を埋葬する墓苑とした。大東亜戦争では、広範な地域で苛烈な戦闘が展開され、この戦争に際し、海外地域の戦場において、多くの方々が戦没された。戦後、ご遺骨が次々と日本に帰られたが、ご遺族にお渡し出来なかったものがこの墓苑の納骨室に納めてある。いわば「無名戦士の墓」とでもいうべきものである。現在、35万8千2百53柱(平成25年12月26日現在)のご遺骨がこの墓苑に奉安されているが、海外戦没者は概ね約240万人との説があり、依然として捜索が続いている。

おわりに

 私たちは靖国神社視察とこの報告書作成から日本の歴史の重みを知ることができた。これから社会人になるにあたって現在の日本をつくった人々のこと、また国際問題となっている靖国問題を含めた中韓との関係は知っておくべきことだろう。ゼミ内の活動ではあるが、これらの諸問題に触れる良いきっかけとなったように思う。

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図2 後藤ゼミ6期生

参考文献・URL

『靖国問題とは何か:日中・日韓関係と愛国心』 1月11日閲覧
『靖国神社問題-Wikipedia』 1月11日閲覧