大正期女性テニスプレーヤー 田村富美子

30組33番 山形 珠礼

【序論】

 福田富美子(旧姓田村、以下富美子)は、大正後期の日本女子硬式テニス黎明期の選手であり、第1回全日本庭球選手権大会優勝者の福田雅之助と結婚したことでも有名である。日本女子テニスのパイオニア的な存在である人物のまとまった資料、および、簡単な内容ではあるが本人直筆の手記が存在している。このことから、体育・スポーツ史上の意義を探りながら、内容を整理して体系的な研究へと繋げるための基礎資料の作成を試みた。具体的には、『新聞・雑誌記事のスクラップ』と『手記』をベースに関連文献も手掛かりにしながら、富美子の生誕からテニスの第一線から引退する20歳までの経歴を整理した。

【本論の概要】

1.生誕から小学校卒業まで
 明治39(1906)年2月24日、父旨達(むねたつ)、母すみの長女として東京で生まれた。小学校6年の頃、土蔵の中でラケットを見つけて庭で遊んだことが、テニスを始めたきっかけであった。もちろん、この時は硬球ではなく、一般的に行われている軟球のテニスであったと思われる。

2,高等女学校時代 —軟球時代—
 大正7(1918)年4月、富美子は、東京女子高等師範学校附属高等女学校(以下、女高師附高女)に入学した。入学後、彼女は、庭球部(軟球)に入部した。そして、大正11(1922)年5月、「時事新報社主催第2回東京女学生庭球大会」が青山の女子学習院で開催された。この頃から、同大会を主催した時事新報社は、新聞紙面を用いて富美子らを度々記事に取り上げ、女子庭球界を盛り上げながらその認知度を高めていった。

3.高等女学校時代 —硬球時代—
 極東選手権大会への女子庭球選手の出場が問題になった。国際競技大会に女学生が出場するということは、前例の無いことで、学校側に戸惑いが生じていることが十分窺えるが、メディア報道の後押しを受けて、富美子等は学校側が「黙認」するというかたちで大正12(1923)年5月に開催される極東選手權大会の公開競技参加への道筋が出来上がった。
 その後、大正15年10月25日富美子は、福田雅之助と結婚した後は一切テニス選手としての活動は行わず、家庭に入り夫の活動を支える生活を選んだ。

【結論】

 富美子は、大正11年から12年にかけて、時事新報社が中心となって急速に発展した我が国の女性スポーツイベント創出期において、主役を演じた代表的女性アスリートであった。「強い女性育成のため」13歳まで毎年夏には1ヶ月海水浴を行わせるという祖父の教育方針から始まり、袴、制服姿で運動を行っていた中で、当時世界一の女子テニス選手スザンヌ・ランランを彷彿とさせるテニスファッション(田村梶川式ユニフォーム)の導入、日本人女性として初めて国際テニス大会に出場して優勝するなど、日本女性スポーツの開拓者として、その後に与えた影響は少なくないと思われる。
 メディアが創出した女性スポーツイベントによって、富美子等は主役に躍り出たわけであったが、メディア自身もそこで躍動する女性アスリート達の報道価値を見出していった。これらの報道は、時には、スポーツ報道の枠を超え、女性特有の言説が形成されていくことになった。有名な医師の孫、女高師附高女の生徒、容姿、福田雅之助との恋愛結婚など、彼女に関する言説は、メディアにより広く全国に流布され、憧れの存在として富美子は偶像化されていくことにもつながった。

【主要参考文献】

・田村富美子資料(『新聞・雑誌記事のスクラップ』『手記』)
・日本庭球協会(1932)『日本庭球協会十年史』日本庭球協会
・日本テニス協会(1983)『日本テニス協会六十年史』日本テニス協会
・小林公子(1990)『遙かなりウィンブルドン 日本女子テニス物語』河出書房