ツール・ド・フランス ~ドーピングの関係性と危険性〜
政治学科 3組18番 鈴木 快彰
【序論(目的)】
近代スポーツにおける重要な問題であるドーピング。このそもそものモラルや選手のパフォーマンスにおける平等性。さらに死の危険性という大きなリスクがあるのにもかかわらず選手は、なぜドーピングをしてまで勝ちにこだわり続けるのか。私が7年間携わった自転車ロードレースは、1886年のボルドーからパリへの6日間のレースにおいてスポーツ界で初めて近代ドーピングの影響で死者を出したスポーツであり、数年前までツール・ド・フランスではドーピング検査で陽性反応を示し、1年間出場停止処分などの処分を受けるトップ選手が毎年のように大量に出ていた。このようなことから、多くの選手のドーピングの使用が明るみになった。しかし、ここ数年におけるドーピング発覚件数は減少傾向にある。これは単純に新しい方法が解明したのか。それとも何らかの要因があったのかを全体を通して解明していきたい。
さらに自転車ロードレースの競技的な特徴上効果が得られやすいことからプロスポーツ全体から比較しても、選手のドーピングの使用率が最多と考えられているのも納得がいく。この多くのドーピング使用例や有名な事件であるフェスチナ事件などのケースからドーピングの危険性を解明するとともにWADA(世界アンチドーピング機構)とツール・ド・フランスの関係。さらにヨーロッパスポーツ界において人気を二分しているヨーロッパでのプロサッカー競技と比較することで、より明解にプロ自転車競技とドーピングの関係性を理解することを目的とする。
さらに自分の限界に挑戦すべく富士山の3ルートに挑戦する。
【各章の概要】
第1章
自転車競技特有の競技性やツール・ド・フランスというレースの基本情報を中心にまとめた。この章で現在のツール・ド・フランスに出場することの難しさや大会の規模を再認識するとともに、最近なぜダイエットブームで自転車が良いとされているのかなどを知ることが出来た。選手の運動量や平地では時速40㎞を超える速度でずっと走るため空気抵抗が計り知れない。そこを対処する技術や戦略などをまとめた。
第2章
1903年から続く伝統的なレースでもあるツール・ド・フランス。100年以上の歴史の中で、まずどのように誕生し大会を重ねるごとに出てくる問題を解決していったのかをまとめた。誕生するまでに至っては二つの雑誌のより良いイベントを主催する戦いがあったことやドーピングを含めた事件や多くの問題、コースの設定や初の海外開催、さらに海外メディアから取り上げられたことで国際化されたことなどをまとめた。
第3章
ここではついにドーピングについて触れていく。まずドーピングの使用をチームスタッフは決して外部に漏らしてはならないという。沈黙の掟(寛容の文化)が存在してたこと、さらにリアルな選手たちが漏らした言葉の意味を考えた。ドーピング検査薬の進化さらにその先を行こうとする新しいドーピング方法の開発などをツール・ド・フランスにおいて垣間見ることが出来る。そして1998年チーム全体での組織的なドーピングが判明し、世界アンチ・ドーピング機構設立の直接的な要因となった、フェスチナ事件を取り上げその後自転車業界でアンチ・ドーピングを掲げるチームが増えた。しかし、それでも一部の選手はドーピングをやめなかったことも確かである。アメリカの英雄ランス・アームストロング、最近ではツール・ド・フランスを制したことがある。スペインのアルベルト・コンタドールなど多くの強豪選手がフェスチナ事件以降のレースで処分を受けていることなどから少なくはなってきているがまだ冷めきってはいないことなどをまとめている。最後に比較的ドーピングが少ないとされているプロサッカー競技と比較することで理解を深めている。
【結論】
1903年からツール・ド・フランスの歴史を見たことで現在より一日で走る時間や距離が長いこと、その過酷さゆえにドーピングが広まり文化が形成されていった。寛容の文化が形成されドーピングの使用はチームの勝利のために変わっていった。そうなってくると使っていなかったチームもドーピングを余儀なくされドーピング使用チームは増えたことが考えられる。つまりチームから完走者を多く出すためにドーピングを使用していた。サッカー競技と比較したことで技術と体力のバランスがスポーツにあり、技術に効くドーピングがないことからサッカーのように技術の比重が多いスポーツはドーピング検挙数が少なく自転車競技のように体力に比重がいくスポーツにドーピングの使用は偏ることが分かった。
【走行レポート】
私は高校から7年間自転車競技を行ってきました。長距離選手であり高校から富士山付近に、合宿で行っていました。富士山の3ルートある登りのうち一つしか登ったことがなかったので興味があり、3ルートを回る勢いで挑戦しましたが、結果的に2つのルートしか登れませんでした。富士山の登りの中で一番きつい、あざみラインを体験したことはいい経験でした。