女性スポーツの歴史 ~人見絹枝が残したもの~

地域行政学科 12組25番 長谷川 奈央

【序論(目的)】

 私は人見絹枝の母校である岡山高等女学校(現在、岡山操山高等学校)の出身であるが、人見が日本の女性スポーツに大きな影響を与えた人物であることを知らなかった。本研究で偉大なる先輩である人見の生涯について遡るとともに、女性がどのような困難を乗り越えスポーツに参入していったのかを明らかにする。

【各章の概要】

第1章 人見絹枝の歴史
 岡山県の小さな村で生まれた人見は活発な少女で頭もよかった。県下の秀才が集まる岡山高等女学校に合格し、学業に励みながらもテニス選手として活躍する。二階堂女塾に進学し、本格的に陸上競技へと転向する。大阪毎日新聞社に就職し、選手としても記者としても活躍する。日本人女性ではじめてオリンピック大会に出場してメダルを獲得し、4つの世界記録を打ち立てるなど素晴らしい活躍をした。そして1931年8月2日、24歳という若さで生涯を閉じた。その日は、アムステルダム・オリンピックで死闘の800mで2位に入賞した日で、奇しくも1992(平成4)年に同郷である有森裕子がバルセロナ・オリンピックにてマラソンで銀メダルをとった日でもあった。

第2章 女性スポーツの歴史
 スポーツが近代化していく舞台の1つはイギリスにあり、しかもとりわけエリート層の若者を教育する場であるパブリック・スクールであった。そこではスポーツは教育手段として重視されるようになり、フットボールやクリケット、ボートなどの集団スポーツは、男らしさ、忍耐、協調的集団精神、フェアプレイ精神などを備えた人格の陶冶を目的において、有効な手段と考えられた。
 その中で女性がスポーツを行うために与えられた目的は、社交のための教養であったり、礼儀作法を身に付け優雅な振る舞いができるようになることであった。女性たちが勝敗を競うような、いわゆる競技的なスポーツを行うことに対しては、「女らしくない」「女には過激すぎる」と批判が強かった。そのため女性が国際的な大会に参加する道のりは厳しいものであった。その中でも国際女子スポーツ連盟による活動で女性のスポーツ組織化を進めたことを先駆けに徐々に女性がスポーツに参入していった。

【結論】

 女性がスポーツに参入していく歴史を見ると、「女らしく」「女には過酷すぎる」といった言葉をたびたび目にした。確かに男女で身体に差があるのは事実であり、1928年アムステルダム・オリンピックでの女子800m走の過酷さを目の当たりにすれば、これほどのことを女性にやらせても良いものかとうい意見が出ることは仕方がないことであろう。しかし、女性自身がそれを望むわけではなく、男性と同じように過酷な競技であっても勝つことを目的とし、競技することを望んだ。そういった女性たちの思いが募り、現在のように女性がスポーツの場で活躍できる環境が生まれたのである。
 また人見は初めて海外遠征を行った日本人女性で、外から日本を見る機会も得て、国際人としての視野も持っていた。若くして世界で活躍する女性に出会い、日本の女性にもそういった姿を見せたかったのであろう。だからこそスポーツだけでなく社会的にも女性が活躍しにくい時代に、人見は選手としても、記者としても活躍することが世界を見た自分の果たすべき使命だと感じていたのではないかと人見の性格から考えられる。
 このように日本の女性スポーツ、女性社会に大きな影響を与えた「人見絹枝」という人物が今以上に人々に知られることを望む。