「女性たちのスポーツ史〜Herstory of Sport〜」視察報告

報告者:清水良介・森下樹生・古屋貴弘(第4期生)
視察日:2011年10月28日(木)

はじめに

 2011年10月28日,我々後藤ゼミ4期生一同は、西早稲田にある学習院女子大学にて開催された「女性たちのスポーツ史展〜Herstory of Sport〜」を視察に行った。スポーツ文化論の視点から「女性とスポーツ」をテーマにした資料の展示であった。明治・大正期の女性がどのようにスポーツと関わってきたかを知る資料として、「遊戯」や「普通体操」の様子が描かれた錦絵等が紹介されていた。

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図1 学習院女子大学正門

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図2 展示会場に入る自分たち

1.スポーツの始まり

 スポーツとは、まず男性が造り出した身体文化であった。その理由としては様々なものが考えられるが、男性は女性と異なり、子どもを産み育てる器官を持っていない。そこで「暇にまかせて非生産的で非日常的な営みにうつつを抜かした」という説がある。また、平均寿命が長く、病気にも強く、身体的にも大きく頑健であるのは女性である。一方、筋力やスピードという身体能力では一般的に男性の方が優れているといわれる。男性は,この限定された勝利の喜びを独占し、政略的に普遍化しようと企図して、女性のスポーツ進出を拒んできたという。

2.女性のスポーツ

 上記のような背景もあり、女性のスポーツは、男性のエスコートなしには成立しなかった。
 19世紀後半から、欧米において女性もスポーツを楽しむようになった。特権階級の社交の場で以前はダンスであったが、次第と屋外に出るようになった。そこでは「女らしさ」を損なわないようなスポーツ(テニス、ゴルフ、アーチェリー、アイススケートなど)が行われた。特にテニスでは、クリノリンスコートという服装でしゃがむことが出来なかったため男性のサポートが必要不可欠であった。現在のボールボーイもこの背景によるものである。エスコートは、服装にも関係していた。
 1896年から開催された近代オリンピックにおいて、第一回アテネ大会では女性の参加は認められていなっかたが、第二回パリ大会からゴルフ、テニスに15名の女性選手が参加した。

3.「普通体操」と「遊戯」

 1903(明治36)年の『高等学校教授要目』では、女学校に「遊戯」と「普通体操」が採用された。「遊戯」は、音楽に合わせ列をなして動く行進運動と遊戯(羽子板遊び、クロッケー、テニス等)であった。「普通体操」とは、亜鈴、棍棒、球竿などの手具を使用する「軽体操」であったので、「普通の人なら誰でもできる」という意味から「普通体操」と呼ばれて明治期の学校体操の主流をなしていた。

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図3 棍棒(手前)と亜鈴(奥)

4.華族女学校と女袴と運動会

 華族女学校は、女性の体育・スポーツ教育のパイオニアだった。
 第4代校長の細川潤次郎は、体育と徳育を重視する教育方針のもと、「体操」の授業時間を増やすとともに、1894(明治27)年11月、第一回運動会を開催した。運動会は年々盛大となり、1897(明治30)年からは春・秋の年2回の開催となった。学習院女子部になってからの1908(明治41)年を最後に一旦廃止されるが、1917(大正6)年に再開する。
 華族女学校発祥の「女袴」(緋袴)は、そもそも体育やスポーツのためのものではなかった。しかしながら、「女らしさ」と「動きやすさ」をうまく折衷したものであった。皇后陛下臨御の際に着流しでは失礼にあたるとして、下田歌子が考案したと言われる。運動会でも体操や遊戯の時間でも活用された様子が写真資料からうかがえた。

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図4 体育の授業風景

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図5 井口 阿くり

5.女子体育の母、井口阿くり

 日本の女子体育は女学校を中心に、体育と徳育を重視する教育方針のもと「体操」が行われ、欧米とほぼ時期を同じくして軽スポーツが活発になり始めた。また、大正10年以降になると課外活動も盛んに行われるようになり、輪投げ、綱引き、卓球、クロッケー、テニスなどの軽スポーツを休み時間に行う女学校が増えた。バスケットボール、バレーボール、水泳、陸上競技などの女学校対抗試合も開催された。一方で、富国強兵策により男子は「普通体操」、「兵式体操」、女子には「遊戯」が適当であるとされた。「女らしさ」の観点から競争遊戯は、女子には不適当とされる動きもあった。そのような歴史的背景の中で「日本女子体育の母」と呼ばれた女性がいた。それが、井口阿くりであった。
 秋田県に生まれた阿くりは、幼いころから頭脳明晰で、運動神経の発達した活発な女の子だった。阿くりは、最初女子だけの児玉学校に入学、ついで女子師範学校に進み、14歳で母校・児玉学校の先生になった。しかし、師範制度が変わったため、秋田県尋常師範学校が設置されると再び入学することになった。1888年、在学中に東京女子高等師範学校に、無試験で入学を許され上京した。先生になったかと思えば、学生に戻ったりと、明治時代の揺れ動く教育制度に翻弄されてきたのであった。4年間首席という抜群の成績で卒業した阿くりは、母校・女高師の附属小学校および中学部で教職に就いた。その後、山口・毛利公爵家が設立した私立毛利高等女学校へ赴任した。その後彼女は、私立という自由な環境のなかで女子教育に専念することとなった。しかし、この時代、日清戦争に勝利した我が国は、富国強兵の道を歩み始めており、国民男女の体位向上を計ることが急務とされた。女子の体位向上を、体育制度を整えることで達成しようと企図した文部省は、欧米の新しい体育制度を導入することにし、女子体育研究を阿くりに命じた。1899年、米国に留学した阿くりは、名門スミス女子大学で生理学、体育学を学び、翌年、ボストン体育師範学校に入って、体操を実地に修得した。ここでも阿くりは首席を通し、さらに、ヨーロッパでの体育事情を視察して帰国した阿くりは、母校・東京女高師に特設された「国語体育専修科」の主任教授に就任した。米国で普及していたスウェーデン体操などを教えた(後の普通体操)。ここから、日本の新しい女子体育が展開していった。

6.今後の女性スポーツ

 女性の人生の中での大きなテーマとして結婚や出産が挙げられる。結婚、出産を終えた女性は自分が行っていたスポーツ関連組織の役員に入ってもらうことや、何年かスポーツから離れたとしても、谷亮子選手のように努力次第で復帰は可能ということに意識を持っていく必要がある。

おわりに

 私たちは今回「女性のスポーツ史」について学び、現在活躍目覚ましい日本女性アスリート達の原点に触れることができた。漫然と彼女達の活躍を喜ぶのではなく、これらのコンテクストを理解した上で観戦することで、それまでとは違った視点でスポーツを楽しむことができるかもしれない。
 この素晴らしい展示の企画・運営を担当された学習院女子大学の荒井啓子教授には、当日の案内を行っていただきました。最後になりましたが、心より深謝いたしております。

参考文献

郷土の偉人を学ぶ http://blog.livedoor.jp/ijinroku/archives/51792286.html
学習院女子大学資料