ジャッキー・ロビンソン
~背番号42 人種差別との闘い~

31組34番 宮地 俊行

【目的】

 私は5歳から16歳までアメリカに在住し、小学生から野球をアメリカで本格的に野球を始めた。私もジャッキー・ロビンソン同様、過去に人種差別を受けた経験がある。そのような環境の中でも、高校2年目のシーズンで最優秀選手賞を受賞した。この体験を本場アメリカで経験できたのもジャッキー・ロビンソンがいたからこそであると思っている。本研究ではジャッキー・ロビンソンが歩んだ人生を概観することにより、彼がどのような問題、困難に直面し、それをどのように克服したのかを明らかにすることを目的とする。

【各章の概要】

第1章 誕生からプロ入りまで
 1919年1月31日、ジョージア州(Georgia)カイロ(Cairo)の近くの町で父ジェリー(Jerry)と母マリー(Mallie)・ロビンソンの間に、第5子としてジャッキー・ロビンソンが誕生した。1920年5月21日、ジャッキー・ロビンソンはまだ16カ月と幼い時に、マリーとジャッキーを含んだ6人は、西海岸のカリフォルニア州(California)に向かった。8歳になってから、ジャッキー・ロビンソンは人生で初めて彼は人種差別を受けた。その後、1937年1月24日、当時17歳の時と1939年9月5日、当時20歳の時に二度逮捕され、このどちらもが人種差別を絡むものであった。1941年3月にジャッキー・ロビンソンは大学を中退し、1942年5月に軍人として、アメリカ軍に入隊した。その間にいくつかの人種差別絡みの問題が生じたが、彼の努力によってこれらの問題は解決された。1944年11月にアメリカ軍を除隊した後、彼はニグロリーグで2年ほどプレーした。

第2章 プロ入り後
 1945年8月28日、ジャッキー・ロビンソンはブルックリン・ドジャースと正式に契約した。この契約は当時、ドジャースの会長であったブランチ・リッキーがメジャー・リーグの人種統合をしたいという思いがあったため、実現した。その後、多くの人種差別問題を乗り越え、ついに1947年4月15日にメジャー・リーグデビューを飾った。当初は多くの問題が生じたものの、1956年、37歳の時まで多くの輝かしい成績を収めた。引退後は野球から離れ、NAACP(全米黒人地位向上協会)の活動などに力を注いだ。1962年1月23日に野球殿堂入りを果たし、1971年には彼が着用していた着用していた背番号42番が永久欠番となった。その1年後、1972年10月24日、スタンフォード(Stanford)の自宅でジャッキー・ロビンソンは静かに命を引き取った。

【結論】

 この研究を通じて、野球の世界に足を踏み入れる前から、ジャッキー・ロビンソンは人種差別と闘い、さらに今までメジャー・リーグで試みなかった黒人選手の参加の実験台として彼はブランチ・リッキーとともに人種差別と闘った。その結果、1人のパイオニアとして成し遂げてきた功績によって、現在多くの人種の人々の道を切り拓いた。彼1人がブランチ・リッキーと交わした約束によって、メジャー・リーグだけでなく日本、韓国といった様々なプロリーグで多くの人種の人々が平等に野球ができるのも彼がいたからこそである。

【主要参考文献】

・Jackie Robinson (1995) “I Never Had It Made”, New York, HarperCollins Publishers Incorporated
・波部優子(2009) 背番号42 メジャー・リーグの遺産 ジャッキー・ロビンソンとアメリカ社会における「人種」、文芸社、東京