清水エスパルスの歴史

12組31番 望月 敬太

【序論】

 私は、地元がサッカー王国静岡県ということもあり小学生の時にサッカーを始め、静岡県のプロサッカーチーム「清水エスパルス」のファンになった。本論文では清水エスパルスがプロチームになり現在に至るまでの過程と歴代監督とともに歩んできた功績、チーム存続の危機にまで陥った原因と再出発までの経緯、サポーターやジュビロ磐田との「ダービーマッチ」、地域貢献について追究していく。

【各章の概要】

第1章 清水エスパルスの誕生
 市民クラブとして地域リーグ所属していた清水FCは1992年に清水エスパルスとしてJリーグ参入を果たす。現在ではJリーグ発足当初からチーム名が変わらないチームとしてJリーグオリジナル10に登録されている。Jリーグ発足から今日まで停滞期や黄金期を迎える時期もあれば、チームの存続が危ぶまれる時期もあった。

第2章 チーム崩壊の危機
 清水エスパルスは1997年にチーム存続の危機を迎える。一つ目の原因がスタジアム入場者数を読み違えたフロントのミス。二つ目の原因は、成績不振と選手の流出。三つ目の原因は、大企業でもないのにビッグクラブを目指し続けてしまったこと。これに伴い市民やサポーターによるチーム存続に向けた署名運動を開始した。金融機関に「がんばれエスパルス口座」を開設して、寄付金を募った。このような市民の強力な後押しは、行政と地元企業を動かし、静岡県の大手企業の「鈴与」が新しくチーム運営をする全面バックアップの要請を承諾し、鈴与グループ会社として株式会社エスパルスが設立した。これによりチーム崩壊の危機をなんとか免れ、1998年からJリーグで一番人々に愛されるチームとして新生清水エスパルスがスタートした。

第3章 サポーターと静岡ダービーマッチ、市民クラブによる地域貢献
 静岡県はブラジルとの交流が深く、在日ブラジル人も多くいるためサポーターによる応援は、Jリーグで唯一サンバを用いている。ジュビロ磐田との静岡ダービーマッチは歴史や経済的因縁が入り混じり、サポーター間の乱闘もしばしばある。
 地域貢献に関しては、地域経済の活性化、市民の健康増進、文化意識の向上に努め、市民とのコミュニティづくりに取り組んでいる。

【結論】

 この研究を通じて清水エスパルスというのは、常にファンや市民からのサポートを得て活動しているチームで、逆にファンや市民からの支えがなかったら活動していけないチームなのである。そして、いつしかJリーグで一番愛されているチームと呼ばれるようにもなった。チームが掲げている目標像である「地域の発展とスポーツ文化の振興に貢献しサッカーを愛する少年たちに夢を与える世界レベルのプロサッカーチーム」を目指し、更に清水エスパルスがサッカー王国静岡の象徴であり続けることを期待している。

【主要参考文献】

1.田中考一(1993)清水エスパルスJリーグへの挑戦
2.田中考一(1998)清水エスパルス新たなる挑戦
3.清水エスパルスオフィシャルサイト