箱根駅伝テレビ中継の歴史とその影響

経済学科 26組6番 笠原 千恵子

【序論(目的)】

 毎年1月2日から3日にかけて行われる箱根駅伝は、以前は学生ランナーにとって息抜きのような大会であった。しかし、現在では大学側は自分たちの大学が箱根駅伝に出場できるように最大限の支援をし、大会当日の沿道は応援の人々で溢れかえり、一種のお祭りのような大会になっている。箱根駅伝がこのような大会になった要因の一つが、テレビ中継の開始であると考え、テレビ中継が箱根駅伝にもたらした影響をもとに、今後中継はどうあるべきなのかを明らかにすることを本論文の目的とする。

【各章の概要】

第1章 完全生中継までの道のり
 1963年に日本テレビに入社した坂田信久が、箱根駅伝完全生中継を実現させた人物である。報道部運動課に配属された坂田は、新人の慣わしとなっていた箱根駅伝の取材を通じて、箱根駅伝に魅了され、当時では不可能と思われていた箱根駅伝完全生中継に挑んだ。しかし、放送機材の発達していない時代では、解決すべき問題は山積みであった。この章では、主に坂田をはじめとするスタッフが乗り越えた課題の数々について述べている。

第2章 テレビ中継開始
 坂田信久の23年来の夢が実現したのが、1987年1月2日であった。初中継は、機材不足や放送時間の問題から、全工程を生中継することは不可能だったため、戸塚中継所と小田原中継所の間の3区・4区と7・8区を抜いた4部構成で2日間放送された。当時は、放送が乱れた時のためにと用意されていた「今昔物語」について述べているが、「今昔物語」は今もなお中継の途中に放送されるコーナーとなっている。往路中継は、特に問題なく乗り越えたが、復路では悪天候に見舞われる事態となった。放送までの道のり、そして放送当日もテレビ中継を成功させるためにいくつもの壁を乗り越えたスタッフ全員と、総合プロデューサー坂田信久との絆が不可能だと思われた生中継を実現させたのである。

第3章 テレビ中継が箱根駅伝にもたらした影響
 この章では、主にテレビ中継がもたらした負の影響について述べている。テレビ中継が開始されてから、途中棄権をする選手が増えたことや、結果を残せない監督はすぐにクビを切られてしまうこと、さらに箱根駅伝を最終目標とする選手が増えたことから、その先のステップである実業団にいっても思うように結果が出せずに数年で引退してしまう選手が増えたことなどは、特に考えさせられる影響である。また、先頭のほうを走ることでテレビにたくさん映ることができれば、大学の宣伝にもつながるため、選手が着るユニフォーム一つをとっても、各大学の戦略が現れている。高校時代から結果を残している選手を自分の大学に入学させるために、金銭的な援助が増えていることなど、学生の一大会であるはずの箱根駅伝は、近年商業的な要素が色濃くなっているのである。

【結論】

 坂田信久という一人の社員の呼びかけで、何百人もの人間の力を結集させて実現した箱根駅伝の完全生中継は、いい意味でも悪い意味でも変化をもたらした。我々観る側の人間からしたら、テレビ中継のおかげで全国どこでも箱根駅伝を応援することができる。しかし、選手たちにとっては、少なからずプレッシャーや負担になっている。テレビ番組を放送するために、選手は練習や休息の時間を割いてまで取材に答えなければならない。箱根駅伝で結果を残した選手ほど、日常生活でも注目を浴びることになる。選手たちの走りに期待するのはいいが、我々もテレビ中継に関わる人間も、選手たちは「普通の大学生」であるということを忘れてはいけないのである。

【主要参考文献】

・箱根駅伝―不可能に挑んだ男たち 原島由美子 ヴィレッジブックス 2007.12
・箱根駅伝 生島淳 幻冬舎新書 2011.11
・駅伝がマラソンをダメにした 生島淳 幻冬舎新書 2005.12
・箱根駅伝ガイド決定版2010 読売新聞社 2009.12
・箱根駅伝完全ガイド2010 報知新聞社 2009.12