レルヒの生涯とスキー ~日本にスキーを伝えた者~

経済学科 24組26番 戸邉 優貴美

【序論(目的)】

 ウィンタースポーツの1つであるスキーは、現代においても人気のスポーツの1つである。そんなスキーが誕生した経緯について調べたところ、スキーが最初にいつ、どこで発生したかということは、はっきりとは解かっていない。唯一、解かっているのはスカンヂナヴィア半島のノルウェーやスウェーデンの沼地で古い木片(後にスキーとされる破片)が掘り出されたという事だけである。極地の氷雪の上を歩く道具として発生したものだった。
 私は、体育の授業をきっかけにスキーが出来るようになった。当たり前だと思っていたスキー授業は雪国ならではの授業であり、物心がついた頃にスキーというウィンタースポーツはテオドール・エードラー・フォン・レルヒが日本に来日し、初めて本格的なスキー指導をした人物であると知る。そこで、レルヒのスキー指導がどのようなものであったか理解を深めると共に、日本での指導を行ったレルヒという人物像を明らかにする。

【各章の概要】

第一章 来日以前のレルヒ
 軍人として就任し、気力・体力と共に充実した33歳のレルヒは、軍の最高峰である国防省参謀本部に抜擢されインブルックという地で任務を任されたレルヒは、初めてスキーを知る。実際にレルヒがスキーを始めたのは、1903年のスキーシーズンのことだった。レルヒはスキーの訓練や研究に多くの時間を割いていった。やがて1000名を超えるスキー会員を持つようになるクラブの運営とスキー技術の普及に努力した。クラブで経験した講習・ツアー・競技会を基にして後に日本でスキーを紹介することになる。
 日本への興味・関心が高かったレルヒは日本への軍事視察を希望し続け、ようやく日本への軍事視察を許可され日本へ来日する事となった。

第二章 来日中のレルヒ
 レルヒは明治43年9月27日に祖国のトリエステ港を出港して、11月31日に横浜港に着いた。明治44年1月12日から高田で実施された将校へのスキー講習は、日本で最初に行われたスキー講習として多くで取り上げられている。レルヒによるスキー活動は、スキー講習、スキーツアー、スキー競技会、軍事スキーの4つに分けられる。直接指導を受けた日本人は、軍人、新潟県下の体操教師、レルヒの身近な人たちだった。レルヒが高田の講習で紹介したスキー技術は、祖国で習得していた『アルペンスキー技術』の内容を基にして実施していた。
 スキー指導に時間を費やしたレルヒであったが、日本来日の本来の目的は軍事視察だった。来日後、すぐに日本側からスキー指導を要求されたため指導への時間が多くなったのだった。しかし、本来の軍事視察も熟していた。
 約2年間の日本での任務を無事に終えたレルヒは、1912年9月29日門司港を船で出港し、各国を回り軍事視察をした後、祖国へ帰還した。

第三章 帰国後のレルヒ
 1912年の12月末に帰国したレルヒは、翌1月からウィーン国防省参謀本部の任務に戻った。その後、世界大戦が勃発し長期に至った戦争は1918年末、軍需物資の確保に劣っていた同盟国側が敗北して、戦争は終結した。そして、50歳を迎えたレルヒは、1919年1月に軍隊を退役した。1945年12月25日。家族に看取られながら安らかな死を迎えた。享年77歳だった。

第四章 日本スキーの発展に生きるレルヒ
 レルヒのスキー指導のスタイルは時代を超えて変化はしたが、本質は変わることなく受け継がれ現代のスキーに迫ったものといえる。レルヒが伝えたスキーは、100年経った今でも現代に生き続けている。また2011年、新潟県の観光メインキャラクターとして「レルヒさん」という名前でご当地キャラクタ―が誕生した。

【結論】

 レルヒは、幼少期の頃から真面目な性格で、軍での仕事は他の誰よりも優秀であった。日本に対する興味を強く抱いており日本語を独学でマスターしようと努力するほどだった。
 レルヒが日本に来日した元々の目的は軍事視察でたった。しかし、来日してレルヒが最初に行ったことは、スキー講習の開催だった。初めて開催されたスキー講習会は、新潟県の高田で行われた。スキーに慣れていない日本人の軍を指導するにつれて、真面目な性格なレルヒはスキー指導にも熱が入り、日本の軍事視察の目的よりもスキー指導への時間の方が多かった。
 高田で行われた講習会に全国から参加していた人たちは地元に帰ると、スキーがどのようなものかを伝える働きをしていた。やがて市民によるスキークラブが誕生し、学校でも教えられた。時代の変化とともにスキーのスタイルは変わっているが、スキーというレルヒの教えは根底に流れ続けてきた。レルヒのスキー指導のスタイルがあったからこそ、時代を超えて今のスキーの本質に迫ったといえる。