「箱根駅伝」不可能に挑んだ男たち

経済学科 31組15番 清水 美帆

【序論(目的)】

 私は大学4年間の応援団生活を通して、箱根駅伝を走る選手を間近で応援してきた。必死で走り、自校の襷を繋ぐ選手を見て涙が出るほどの感動を貰うと共に、この伝統ある箱根駅伝が開催される為には様々な人々が関わっているということを感じた。現在テレビ中継によって、当たり前のように自宅にいながら箱根駅伝の様子を見ることが出来るが、電波のない山中をコースとする箱根駅伝をテレビ中継することは不可能と言われていた。そんな中で箱根駅伝に魅せられ、「箱根駅伝を中継する」という不可能に挑んだ男たちの様子を知ることで、また違った視点からも箱根駅伝を見ることが出来るのではないかと考える。

【各章の概要】

第1章 箱根駅伝に魅せられて
 坂田がなぜ不可能と言われていた箱根駅伝を中継しようと思ったのか、エピソードを知ることで人々の人生に大きく影響を与える箱根駅伝の魅力にはまっていく坂田の様子を書く。

第2章 ゼロからのスタート
 当時の放送業界にとって、電波もなく長時間にも渡る箱根駅伝の中継は不可能と言われていた。電波の受信ポイントの発見、メインアナウンサーの決定、電波を届けるヘリコ不可対策の検討など、山積みの課題を解決するべく箱根駅伝中継成功に向けてゼロからスタートをさせた。

第3章 本番まで残り僅か
 11月になると制作本部は部屋の一室で泊まり込みの不眠不休で仕事をしていた。本番直前になってスタッフの宿泊場所がないというトラブル発生のハプニングもあったが、無事本番前日を迎えることとなる。絶対に成功してみせるというスタッフ全員の熱い思いを書く。スタッフの気持ちは1つだった。

第4章 往路中継スタート
 1987年1月2日、スタートを告げる日の朝が来た。カメラチェンジ、アナウンス、スタッフ全員のかけあうタイミングはまるで初めてとは思えない絶妙の出来だった。初の山岳ロード中継を成し遂げた。

第5章 復路中継の危機
 あいにくの天候で、ヘリコが使用不可となった。中継は果たして出来るのかという不安を多くのスタッフが抱えている中で、この時の為に準備をしてきたヘリコ不可対策用のQシートを全員が手に取り覚悟を決めた。予期せぬVTRの挿入にも、何時間にも及んだ準備のお陰でスムーズに中継は進んだ。長年スポーツ中継をやってきたスタッフ達も、チームワークの良さをこれほどまでに感じたことはなかった。

第6章 栄光のゴール
 放送もいよいよ終盤を迎えエンドロールには責任者や主なスタッフの名前が流れるのだが、そこにはサポートスタッフを含めた関係者全員の名前が流れ始めた。事前に知らされていなかったスタッフたちは、自分の名前を画面に発見して胸を打たれた。そして「感動を繋いだ213.9キロ。1987年、ときめきの幕開けをありがとう」という白い文字と共に、遂に箱根駅伝中継が幕を閉じたのであった。

第7章 快挙を成し遂げたあと
 午後1時55分、2日間、延べ8時間に渡る生中継がついに終わった。プロデューサー坂田による構想期間は約23年、総合ディレクター田中やテクニカルディレクター大西らと共に費やした準備期間は、約2年だった。スタッフ達は涙を浮かべながら抱き合い、その場は言葉が出ないほどの感動に包まれていた。

【結論】

 私はこの本を読んで、本当は箱根駅伝のことを全く知らなかったということが分かった。必死でタスキを繋ごうと走っている選手を見てただ応援しているだけであった。しかし、これだけ箱根駅伝が全国民に愛され、高い視聴率をとることが出来ているのも、テレビ中継が大いに関わっているのだと思う。家にいながら当たり前のように選手の姿を見ることが出来ているが、それは数多くの日本テレビのスタッフの汗と涙の結晶そのものなのだろう。来年以降、箱根駅伝を見る際には、今までは選手の様子しか見ていなかったが、スタッフの動きやVTRなどの中継の様子も気にしながら、応援していきたい。また、私がこの本を読んで最も尊敬する人物は、箱根駅伝を中継しようと行動に移した第一人者である坂田信久さんだ。始めは誰もが自分の計画を不可能だと言っていたにも関わらず、23年越しの夢を実現させたのだ。その実現させるまで諦めなない不可能に挑戦する強い気持ちと、夢を追い続ける精神にとても感銘を受けた。私もこの本に出てきた日本テレビのスタッフのように、何か最大の目標の為に、自分の時間を削ってまでも努力をしたいと思えるものを見つけたいと思った。

【主要参考文献】

『「箱根駅伝」不可能に挑んだ男たち』 ヴィレッジブックス 原島由美子 2007.